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灯~Akari【和洋中歴史風&歴史創作系イラスト/小説検索】

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2007年4月30日 (月)

第二部琵琶湖決戦編124「奥義 木の葉がえし」

第二部琵琶湖決戦編124「奥義 木の葉がえし」

暗報は、義父を殺したその足で東命寺に戻り、翌朝、師匠であった久育(きゅういく)に茶をだす。

師匠久育の死体を発見したのは、修行僧であり、苦悶の表情を浮かべて死んでいるそのそばで、うまそうに茶をすする暗報の姿を見た。

暗報との実力差を知る修行僧は、賢明にも急いでその場を離れ、

「久育様が暗報に殺された」

と大声でわめきまわった。

その声に応じ、何名もの僧が暗報を探す。

そのなかの四名のものが、悠然と山を下っていく暗報を発見し追いかける。

暗報は、四名の追っ手が近づくのを待って、何十枚もの木の葉を宙に投げ上げた。

「木の葉がえし」

という東命寺派奥義のひとつで、木の葉にしびれ薬をしみこませ、風上から風下の相手に放つことで、その葉に触れるか臭うかした相手を、しびれ薬で身動きのとれない状態にする技である。

賢明なる読者は、技をかけるものも己の毒で傷つくのではと思われるかも知れないが、毒使いの奥義を極めたものなら、よほどの死に至る毒以外には耐えられるのである。

だから風上に立てる道を暗報はわざわざ逃げていたのであり、追っ手がくるのを期待していたのだ。

「木の葉がえし」を受けた追っ手達は、気を失いその場に倒れる。

暗報は、倒れて動けない四人の頚動脈を掻き切って絶命させ、

「ヒヒヒヒヒヒッ」

と奇妙な高笑いをして、高雄山をあとにした。

そして「木の葉がえし」の技を最後に、暗報の姿は消えてしまう。

高雄山東命寺派は暗報を破門し、暗報への刺客を放つが、暗報の行方がしれないだけに、刺客もなにもあったものではなかった。

では、暗報はどこに消えたのか。

暗報乱心の噂を聞きつけた、暗器師烏丸中将成幹は、自身の家臣に命じ全力を挙げて暗報を捜索した。

この稀代の毒使いを、己が掌中にしたいというのは、暗器師として当然の思いであった。

運よく東命寺派のものより早く、紫野の大徳寺近くの荒れ寺に潜んでいた暗報を発見した烏丸中将成幹は、己が邸宅にかくまう。

それから十八年、今は暗報は五条橋からやや下ったところの民家をねぐらに、烏丸中将成幹の何年かに一度か二度の暗殺の依頼を実行したり、浪人姿に編み笠で顔を隠し、烏丸中将成幹の護衛役などをして暮らしていた。

その暗報に正英と良之介暗殺の命令がくだったのは、草津の街道で二人を待ち伏せする前の日のことだった。

指令を伝えにきたのは、烏丸中将成幹の片腕、宮内平蔵(みやうちへいぞう)であり、そのまま二人は京をでたのであるが、宮内平蔵のことは次に書くとして、その指令を忠実に実行し正英と良之介を気絶させた暗報は、

「ヒヒヒヒヒヒッ」

と十八年前に高尾を去るときと同じ笑いをし、一本だけ差している刀を面倒くさそうに抜く。

暗報は、風を計算しながらじっと、正英と良之介とおぼしき者たちを待っていたのだ。

二人が見えたとき、暗報は秘伝のしびれ薬の液をいれた小瓶のふたを開け、己の体全体に、外からは見えぬように着物の裏からふりまいたのだ。

正英と良之介が「くさい」と感じたのは、しびれ薬の臭いであった。

刀を抜いた暗報は、まず二、三歩前に仰向けに倒れている正英の傍らに寄った。

正英の頚動脈を断ち切ろうと、刀を首筋にあてようとした瞬間、正英の眼があき、

「俺に毒は効かぬ」

というや、暗報に点欠した。

暗報は、一瞬のことに、驚いた表情のまま刀を下にし、中腰の姿勢で固まってしまったのである。

以下125に続く

2007年4月28日 (土)

第二部琵琶湖決戦編123「高西暗報」

 高西暗報は、四十六年前、朝廷で代々お毒見役を勤める高西家の門前に捨てられていた過去を持つ。
 良之介も捨て子だが、この時代は捨て子や間引きはよくあることで、捨てられた場所が、良之介が寺で、暗報が公家の門前であったという違いがあるだけだ。
 捨て子の人生が、拾ってくれた人の生き方に左右されるのは当然だが、その意味で高西家に拾われた暗報の人生の出だしは好調であった。
 子供のいなかった高西家の当主、正報は拾った子は天からの授かりものとおおいに喜び、己の一字を与えて暗報とし、いたく可愛がった。
 六歳からお毒見役の修行を暗報に課していく。
 それは、実際の毒を味わい、さまざまな毒を「体」で覚えていくもので、程度の弱いものから徐々にはじめ、最終的には猛毒を致死量の一歩手前まで味わっていく、己の生を賭しての修行であった。
 義父高西正報は、暗報の毒を味わう力に次第に感心し、己の後継者を得た心持ちであった。
 しかし、十歳のとき、暗報の人生はまさに暗転する。
 養母おたきに子が生れたのだ。
 実子ができれば、暗報の高西家での居場所がなくなるのは、必然であった。
 正報は、暗報の毒への才能を惜しみ、武術とともに毒使いとしても有名な武林の名門、高雄山東命寺に入山させ、僧としての一生を送らせることにした。
 十八歳までの暗報は、武術と薬学の勉強が主であった。
 暗報は、その修行だけでは飽き足らず、学んだ薬学の知識をもとに自分なりに毒や毒消しをつくったり、高西家でやっていたように、毒を味わったりしていた。
 十九歳から東命寺でも実際にさまざまな毒を味わう、実践的な毒使いの修行が始まる。
 その修行はすさまじく、東命寺史上最年少の二十五歳で導師(東命寺では奥義をきわめ弟子を持つことが許される僧をさす)となった暗報でさえ、導師になるまでに三度意識不明の重体にに陥っている。
 だが、導師になったころから、暗報は、己の力を試したくなってくる。
 誰でも修行をしていくと、自分のレベルを探ったり、より向上させたくなるものだ。
 ただ、困ったことに暗報の場合、己が作った毒の効き目を試したくてたまらなくなったのだ。
 暗報は、理性と良心の力でその誘惑に打ち勝とうと
した。
 しかしその誘惑に」負けるときがくる。
 そのきっかけは、暗報二十八歳のとき、義父正報が、東命寺を訪ねたことであった。
 それは、暗報に高西家に戻ってもらえないかという依頼であった。
 なんと実子が、お毒見役の修行の最中に死んだというのだ。
 また義母は昨年死んで独り身だともいった。
 その依頼をきいた暗報は、内心ほくそえんだ。
 日本一の毒見役と勝負ができるのだ。
 この機会を逃す手はないと、義父とまったく違う思惑からその申し入れを承諾する。
 山を下りて二日目に義父正報は死ぬ。
 夕餉の汁物にいれた、暗報特性の「ダシ」の味を、義父正報は味わえなかったのである。
 以下124に続く

2007年4月26日 (木)

琵琶湖伝百二十二「乞食浪人」

琵琶湖伝百二十二「乞食浪人」

その浪人は、近江水口から大津にいたる東海道の途中、草津宿まであと一里の田舎道の路傍に立っていた。

空を見上げている。

背は百五十センチくらいか、かなり低い。

体重は逆にかなりありそうで、九十キロか。

頭は丸坊主である。

顔は大きく、またその顔の半分は額に見える。

目の焦点が定まらず、黄色い歯が覗く。

その歯も、前の二本が抜けている。

恐らく無精なのか、妙に薄汚い衣服であり、衣服なのか体臭なのか鼻をつく臭いに横を通る旅人は顔をしかめる。

一見、気のふれた男が立っているようにも見える。

四十五、六だろうか。

狂人に見えるくらいだから、正確には年がわからない。

変わり者が、

「ご浪人さん、何を見てらっしゃる」

などと声をかけても、

「ヘヘヘッ」

とよだれをたらしそうになりながら、奇妙に笑うだけで、声をかけた者のほうを見るでもなく、空を見ているだけであった。

時刻は午後二時。

11月の風が心地よい、陽光つよき日である。

旅人ものんびり昼寝でもしているのか、浪人以外、誰の姿もない道を、二人の男が歩いてきた。

井原正英と市来良之介である。

あかつき峠を下った二人は、鈴鹿山中を越え、その日の夜は野宿をして若干の仮眠をとり、近江堅田をめざしていく。

道中、二人の間で話題になったのは、甲賀伝兵衛が発した、

「井原正英か」

という正英への呼びかけであった。

あの涼単寺で正英の顔を見たのは、石黒将監しかいない。

その将監は、正英のことを知らなかった。

正英と良之介は、なんせ一六〇センチと一九〇センチの身長の違いがあり、夜とはいえ、その身長差は誰が見ても、「怪しき者」の特徴として、記憶されよう。

しかし、なぜ「名」まで分かったのか。

二人は、そのことを語り合ったが、明確な答えはでなかった。

「正英様、妙な格好の人間が」

「うん・・・・・・」

正英には、三十メートルほど先にいる、空を見上げている乞食浪人風の男の格好よりもその臭いが気になった。

「良之介は、なにか臭わないか」

「臭いますね。あの浪人、きっと、しばらく風呂に入ってないですよ。風上に立ちやがって。くちゃーい」

そう言っているあいだに二人は、乞食浪人の横を通りすぎた。

若干、正英の後を行く良之介は、あまりの臭さに耐え切れず、鼻をつまんで、

「ジロリ」

と浪人をにらみながら通過した。

五、六メートルいったところで、正英が苦しそうにうめきながら、地面に座りこみ、そのままゴロリと寝転んだ。

口から泡を噴き、白目になっている。

「正英様、いかがなされた・・・・・・」

そう呼びかけながら、眼の前が暗くなった良之介はそのまま失神し、正英の傍らに倒れていった。

「ヒヒヒヒヒヒッ」

乞食浪人が、初めて首を下げ、正英と良之介の倒れた姿を見やって、眼ヤニのついた眼を大きく見開きながら、笑い出したのである。

この浪人こそ、空海からの伝統を受け継ぐ武林の名門、高雄山東命寺派の俊英といわれ、その奥義をわずか二十五歳にして極めながら、後に破門の憂き目にあい、山を追放された稀代の毒使い高西暗報(たかにし あんぽう)の成れの果てであった。

高西暗報、このとき四十六歳。

以下百二十三に続く

2007年4月24日 (火)

琵琶湖伝百二十一「「あかつき峠の決闘その二」

琵琶湖伝百二十一「「あかつき峠の決闘その二」

正英は一呼吸し、息の乱れを整えた。

其の時、

「正英、刀を捨てろ」

甲賀伝兵衛の声が崖際からした。

その方角を見ると、良之介は崖に追い詰められ、胸と腹に三名の長槍を突きつけられて身動きのとれない状態になっていた。

(ここまでにするか。もう六人も殺してしまった)

正英は、気楽に刀を足元に捨てた。

あまりに気楽に捨てたので、甲賀伝兵衛は何か策でもあるのかと、次の行動をためらった。

もしこのとき、甲賀伝兵衛が何のためらいもなく、正英に長槍を突き出せば、正英は絶命したであろう。

しかしこの一瞬が、伝兵衛と正英の生死を分けた。

「ズドドーン」

鉄砲の発射音が二回、正英の背後から聞こえ、甲賀伝兵衛は額を打ち抜かれて即死する。

もう一発は、良之介を囲んだ甲賀衆の一人の後頭部をつぶしていた。

突然の新手の襲撃に、残りの二人の甲賀衆はたじろいだ。

そのスキを見逃さず、良之介はその二人を谷底に突き落とした。

(またこの世に生かされたか)

正英が、嘆息しながら憂鬱そうに振り返ると、馬に乗った雑賀孫六が笑いながら近寄ってきた。

その後に、やはり馬に乗ったお耳役の与平と勘太がつづいている。

孫六の手には雑賀衆愛用の二連銃(銃身が短い火縄銃で銃口が二つあり、一度に二発撃てる銃)があった。

「孫六様、久しぶりに鉄砲の技を拝見しましたぞ」

正英がいうと、

「ハハハ、そうか。わしは、日本一の鉄砲集団雑賀衆の者ぞ。本来の武術を見せたまでよ。腕はまだ衰えておらぬ」

誇り高き雑賀衆の答えを孫六はした。

「孫六様、ありがとうございました」

良之介が駆けてくる。

「良之介、長槍の間合いにとまどったか」

「孫六様、その通りです。どう動くか迷っている間に、囲まれてしまいました。勉強になりましたよ。でもなぜ孫六様がここに」

良之介の屈託のない答えに孫六の顔もほころび、

「この国境(くにざかい)を見張る役目の与平と勘太に感謝しろよ。長槍を持った妙な者共が近江との国境をうろちょろしていると、この二人がいうてきてな。昨晩の話から、甲賀信楽衆がお前たちを待ち伏せしているのではないかと、急ぎ馬を走らせてきたわけだ」

と事情を説明した。

「ありがとうございました」

孫六の言う通りに正英と良之介は、与平と勘太に感謝の言葉を述べた。

馬上で与平と勘太は、頭をかきながら照れくさがる。

孫六は顔付きを変え、正英と良之介に言葉をかける。

「お前ら、このまま彦根に行くのは危険すぎるぞ。違う道から彦根に入るべきだが、どこか心当たりはあるか」

「ウン、あります。ただ二日ほど潜入が遅れるかも」

正英は即答した。

「二日くらい遅れてもどうということはない。それでは、早速行け。われらは、この者たちの死体を片付ける」

孫六に促され正英と良之介は、元の道を今度は下っていった。

良之介は、歩きながら問う。

「正英様、どこに心当たりがあるのですか」

「今から、関(せき 

三重県亀山市

(旧・鈴鹿郡関町)に向かい鈴鹿峠を越え、近江水口(滋賀県甲賀市

水口町

)から東海道を上って、大津に行き、そこからお香のいる近江堅田(

滋賀県大津市堅田

)をめざす。堅田からは船で琵琶湖を横断し、彦根にはいる」

正英は、正面を見据えながらそういった。

以下百二十二に続く

2007年4月23日 (月)

第二部琵琶湖決戦編120「あかつき峠の決闘その一」

第二部琵琶湖決戦編120「あかつき峠の決闘その一」

伊勢桑名から北上し近江彦根に到るには、美濃大垣を通過せねばならないのは、すでに「美濃街道」の章で述べたが、近江と伊勢を一挙につなぐ道もあった。

それは乗掛峠越えの道である。

現在では三重県と滋賀県を結ぶ国道三〇六号線が整備され通りやすい道になったが、当時は「胸突き八丁」といわれた難所で、伊勢の多度から北西に向かい、鈴鹿山脈の釈迦岳や竜が岳を左に見ながら登って下れば近江の多賀にいたる。

多賀からはすぐに彦根である。

孫六の命で今度は直接に彦根にむかうルートをとった。

難所をいかせるのも罰のひとつだそうな。

乗掛峠は別名あかつき峠といわれる。

正英や良之介の足でもきついくらい、この峠はかなりの厳しい勾配であり、普通の人の足ならば、桑名からは「あかつき」のころに出立せねば、峠がきつすぎて、とても昼間のうちには越えられず、野宿を強いられるということから、「あかつき峠」の異名がつけられたのである。

彦根への再潜入を命じられた井原正英と市来良之介は、その峠の急な上りになっている蛇行する道を淡々と歩いていた。

正英は、己の影から時刻をわりだし、せいぜい午前九時くらいかと思った。

桑名を二人がでたのは、午前六時。

まさに「あかつき」であった。

昨晩の忠勝、孫六、梶金平との話し合いで、石田三成存命の噂の真偽定かならず、再度彦根に行くべしとの結論がでたのだ。

早朝六時の出立ということで話し合い終了後、正英が家に帰ると、すでにお香は堅田の実家に行くということで立ち去ったあとだった。

翌朝、雑賀孫六が城下の外まで正英と良之介を見送る。

孫六は、彦根潜入の際の新たな隠れ家を書いた紙を正英に渡した。

そこには、地図と有田屋一歩十蔵(いっぽじゅうぞう)という文字があった。

さらに、お前らを取り逃がしたことで井伊家は、かなりの警戒体制を敷いているであろうから、死ぬ覚悟で彦根に潜入せよとの厳しい注意があった。

正英も良之介も覚悟を決めての、あかつき峠越えである。

あかつき峠は全体に、あまり樹木は多くない。

道はその少ないいくつかの木々の中を縫っていた。

岩が多く、それを伝わって清水が、わずかながら流れ落ちている。

二人は前屈みになって、道を上り続けた。

直角に近い曲がりくねった道を過ぎると、急に道が広くなる。

左側が山の急斜面で、右側は崖であり足を滑らせれば、深い谷が待ち受けている。

二人は、立ちどまった。

崖を背後にして、三つの人影が並んでいるのを見たからである。

さらに左側の路傍に四人の男が並んでいる。

正英は、後ろを振り返った。

いつの間にか三人の男が上って来ている。

全部で、十人。

全員が腰に長脇差を落し、手には長槍を持っている。

甲賀信楽衆である。

「井原正英か」

路傍の四人の中の一人が前に進み出て野太い声を張り上げた。

赤ら顔の大男で、明らかに甲賀伝兵衛である。

「甲賀伝兵衛か」

正英は、落ち着いた声で言った。

「そうだ、甲賀伝兵衛だ。もうこれ以上、峠道を歩く必要はないぞ。涼単寺ではお前らを逃がしたが、今度はここで死んでもらう」

「死ぬのはどっちか分からぬぞ。弥助さんの仇をとる手間が省けた。のこのこ出て来てくれて、こちらこそ礼をいうぞ」

良之介は伝兵衛に負けぬ啖呵をきった。

「フッ、何とでも言え。お前たちは死ぬのだ」

(無益な殺生はしたくない)

正英は思った。

しかし、甲賀信楽衆も良之介も眼をぎらつかせ、人殺しをしたくてたまら ぬ風情である。
「甲賀衆よ、いつ死んでも良いつまらぬ命だが、多少の手向かいはさせてもらうぞ」
 腹を決めた正英は、そう言うや、崖際の三人に向かって走り出す。
 後ろの三人はその正英を追う。
 しかし、正英の行動は己の近くに敵を呼び込むための策であった。
 突如反転すると、背後から迫り来る敵の一人に、電瞬一撃の抜刀を浴びせ る。
 抜刀された男は首の皮一枚を残して絶命した。
 正英の居合いのすごさに圧倒された残りの二人は、すでに敵ではなく、腹や胸を裂かれてあっという間に地面に倒れ伏れ動かなくなる。
 後方の三人を制した正英は、前方に駆け出す。
 崖際の三人が、槍を構えながらむかってくる。
 正英は、左側の山の急斜面を一気に駆け上がろうとする。
 三人のうちの一番近くの男が、長槍を突き出した。
 正英は繰り出される槍をかわし、飛び上がってその槍の柄のわずかな幅の上に乗る。 

己の槍の上で起こった、この世のものとは思えぬ妙技に眼を剥き驚愕

する男の首を気合一閃、正英は横殴りに刎ねた。

すさまじい勢いで首のあった場所から血が噴きあがっていく。

撒き散らされる血にも構わず、正英は今正に殺した男の槍が地に着く前に、崖肌へと跳んだ。
 その着地した瞬間を狙い、他の二人の槍が同時に突き出される。
 斜面に足をつけた正英はその反動を利用し、手毬が弾むがごとく、槍の方向に一回転し、二人の男の背後にまわった。

男たちが振り向こうとしたとき、すでに彼らの命はあの世に飛んでいったのである。


 刃の血を払い、納刀する音が、天へか地へかの黄泉路を歩き出した名も知らぬ男たちへの手向けであった。

以下121に続く

2007年4月22日 (日)

琵琶湖伝百十九「忠勝と孫六及び金平」

琵琶湖伝百十九「忠勝と孫六及び金平」

正英と良之介は桑名城に、お香は一人で正英の住居にむかった。

城の近くにある雑賀孫六の家に、二人が立ち寄り、彦根でのことを話すと、城の二の丸の広間で待てと指示がある。

三十分ほど広間で座っていると、忠勝と孫六、それに梶金平(かじきんぺい)がきた。

上座に忠勝が座り、忠勝から一段下がったところの左に金平、右に孫六が座った。

正英が孫六に言った話を忠勝に再度しようとした瞬間、いつの間にか、正英の横にきた忠勝が、正英に鉄拳をふるい、正英は吹っ飛ばされた。

「言い訳をするな」

忠勝が正英をしかった。

「殿、正英はまだ口を開いておりませんが」

梶金平が、苦笑しながらいう。

「馬鹿者。顔を見たら、今から言い訳しまーすって、書いてたんだよ。先手だよ、先手。先手を打ったのだ・・・・・・おい良之介、お前は腕立て伏せ千五百回。数えろよ、このこんぺい野郎」

「なんだと。わしゃ、こんぺいじゃない、きんぺいじゃ。おい良之介、腕立て伏せはじめーい。よーし、いっかーい」

良之介は腕立て伏せを始め、梶金平が回数を数えだした。

正英は、忠勝の鉄拳に意識が朦朧となったが、なんとか元の位置に座り、彦根での件について報告した。

忠勝は眼をつぶり、じっと正英の言葉に耳を傾けていたが、弥助の死までを聞いて、眼を開けた。

「あとは、彦根を出たわけだな」

「はい」

「その三成に似た者の死亡は確かめたのか」

「全身血だらけで、眼をカッと見開いたまま動かず、どう見ても外見的には・・・・・・ただ、実際、体には触れていません」

「孫六はどう思う」

「何かわざとらしい。あまりに偶然が重なっている気がします」

「わしも同じだ。正英が庭に入り、動き出したときに、三成似の僧が現れ、すぐに殺害される。どうせ三成は関ヶ原のあと首をはねられ、この僧も死んでしまった。あーあ、彦根まで無駄足だったなぁ。くるんじゃなかった。おつかれさーんと・・・・・・思わせたい臭いがプンプンだ。小細工しすぎて、逆に、三成のやつ、生きているんじゃないかと、勘繰りたくなった」

「忠勝様、部屋が血の海だったのも、犬の血でもまけば済むし、その上に寝転んで眼でも剥いておけば、瞬間的には死んだだように見えますな」

「孫六よ、いうまでもない。そんな小細工を真に受けて、あわてふためき、人を殺すような馬鹿がいるんだからな」

正英は、忠勝が己のことをいっていると気づき、自分の愚かさを自覚し、情けなくなり、涙が溢れ出した。

「もう、正英、勘弁してくれ。泣いちゃいけん。お前が正しいかもしれんのだ。なあ、涙をふくのだ」

忠勝が、もっと正英を泣かせようと、残酷にいたわりの情をしめす。

「そうだぞ正英。お前の努力や優しさを否定しようなどと思ってはおらぬ。泣くでない。泣くでない」

孫六も正英に、さらに追い討ちをかける。

「ワーッ」

とうとう正英は声を挙げて泣きだしたのである。

その傍らで、良之介の腕立て伏せの数を数えていた梶金平が、忠勝に報告する。

「殿」

「どうした」

「良之介、最後に勢いあまって千五百一回になりましたが」

「なーにぃ、良之介、本当か」

「はい、思わずもう一回しちゃって」

「仕方ないやつだな。わしの命令にそんなにそむきたいのか。千五百回とはいったが、千五百一回とはいっておらんな。主君の命に従わぬものは、普通なら切腹だぞ。しかしお前はまだ若い。わしも鬼ではないからな。もう千五百回してよね。それで許してあげるから」

忠勝の優しき命令を受け、再度、腕立て伏せを始めた良之介の涙が、ポタリポタリと畳に落ちていく。

(涙は心の汗だ)

まったく筋違いのことを考える、梶金平であった。

以下百二十に続く

2007年4月21日 (土)

琵琶湖伝百十八「柳生七子」

琵琶湖伝百十八「柳生七子」

柳生七子のいわれは、以下の通りである。

大和の国柳生の里で、柳生新陰流の祖柳生石舟斉のいうことすらきかない暴れ者の七人の処遇に石舟斉やその子柳生宗矩(むねのり)は困っていた。

その折、関ヶ原で家康が勝ち天下の流れは決まる。

そこで宗矩は家康に頼み、「上方御免状」という近畿地方通行自由の許可状をだしてもらい、「上方御免状」をその七人に与えて、常に近畿を徘徊し、治安の維持にあたるように命じた。

大和の国からもめずに七人を追い出すための宗矩の策であったが、七人もその役目を喜び、近畿各地に出かけては、盗賊や山賊を自由に捕らえ、殺していく。

ここに柳生七子が誕生したわけである。

ただ御免状を盾に傍若無人の振る舞いも多く、七人は行く先々で面倒を起こすので、近畿地方の人々にとって、眉をひそめる存在であった。

正英は柳生七子ときいて、

(厄介な奴らと出会ったものだ)

と思ったが、顔にはだすはずもない。

「柳生七子の皆様とは、今日初めての対面でござるが、無礼がすぎましょう」

正英は堂々と正論をいった。

乗月源三は、深々と頭を下げた。

「そこの倫敏と申す女は、男以上に気の短い女。それでもこの所業は、いきすぎでござる。拙者が切り捨ててもよいのでござるが、未熟者の妄動とお思いになり、今からの修行に期待するとして、今日のところはお許し願えまいか」

慇懃な物言いを乗月源三はした。

ただ、その物言いの中に正英は、

(絶対に頷いてもらうぞ)

という威圧を感じた。

柳生七子は、柳生北斗陣という陣形で戦うそうな。

その噂を正英は思い出していた。

(いっそ、許さず、柳生北斗陣を拝見しようか)

内心、正英の武術の虫がうずいた。

しかし、その虫はつぶすしかない。

桑名に、急ぎ戻るのが己の勤め。

「お香さん、その女を逃がしてください」

お香は正英の意を汲み、落ちていた短刀を拾い、遠くに投げたあと、油断なく縄を解いてやった。

倫敏は、

「キィーッ」

と奇声を発しながら、大垣方面に走り去った。

「再度、あやまるしかない。縄を解いてもらえば、まずは皆様に、特にその背の高い若者には心よりあやまるべきを、あの倫敏め、何もいわずに逃げるとは。情けない下郎でござる。面目ない」

乗月源三がふたたび頭を下げると、他の七子も全員頭を下げた。

良之介が、

「これで水に流して何もなかったことに」

といった。

「噂通りの狼藉者たちだな」

柳生七子の後ろ姿が夕闇に消えていくのを見送りながら、正英はつぶやいた。

晩秋の昼間から、冬の気配を感じさせる夜へと時刻はかわりつつある。

正英、お香、良之介の三人が、桑名の城下町に入ったとき、すでに町の方々で提灯に明かりがともされていた。

以下百十九に続く。

2007年4月19日 (木)

琵琶湖伝百十七「流れ雲」

琵琶湖伝百十七「流れ雲」

巡礼姿の女は、後方に飛んで着地した良之介の胸めがけて、両手を前に突き出し飛んでいった。

まさに己の体を弓矢の如く、いや弾丸の如くして、宙を飛んでいったのである。

良之介は女のその体技に驚きあわてた。

一直線に、良之介に向かって飛んでいく女の右手には、いつのまにか短刀が握られていた。

「アッ」

気づいた正英は言葉を発したが、女をとめるひまはなかった。

良之介は、まったく女が突き出す短刀に気づかず、そのまま短刀を胸に受けてしまう。

    ・・・・・・。

正確には、短刀の先端を受けてしまった。

お香が、すばやく縄を投げて、女の両手首に巻きつかせ、

グイッ

と引いたのだ。

女は、失速し地面にたたきつけられかけるが、なんとかふんばり、片ひざ立ちで良之介にむかい、首をあげた。

チクッ

胸の痛みに気づいた良之介は、己を殺そうとし、今己を見上げる女をみた。

笠の上から垂らされた薄い布で女の顔は、はっきりと見えない。

お香が、女の背後に回り、縄を女の体全体にまわし、締め上げた。

女は痛みから短刀を落とすとそのまま両膝をつき、身動きできなくなった。

「あんた正気なの。道を譲るかどうかで、人を殺すの」

お香は女をなじり、縄をさらに締めた。

「ウッ」

女のうめき声がする。

「お香、許してやれ」

真横にきた正英がお香に声をかけた。

お香が振り向くと、編み笠の男以外の五人がすでに抜刀しこちらを見ている。

お香の眼には、抜刀した者たちの遠くにある銀杏の樹が映っていた。

鮮やかな黄金色であった。

空は、晴れている。

二つ三つと、柔らかそうな雲が浮いている。

秋も終わろうとしている十一月の流れ雲であった。

あと一時間も経てば、この空は赤くなり、そして薄墨色となり、闇となっていく。

そんな時間に、こののんびりとした風景の中で、正英とお香と良之介は、争闘の場に立っていた。

正英は、「揉め事」を起こしたくないのだ。

今、すべきは、桑名に戻ることである。

その結論が、

「許してやれ」

であった。

「刀を納めろ」

編み笠の男の声がした。

抜刀した五人は、刀を鞘におさめる。

男は笠をとった。

浅黒い顔で、彫りが深く整っている。

凍りついたように冷たい眼差しが人を威圧する。

四十をすぎて、間もない年輩であった。

「拙者は、乗月源三(のりづき げんぞう)でござる。柳生七子(やぎゅうしちし)が頭領で、他の者は七子の面々、その女は倫敏(りんびん)と申す」

以下百十八に続く

琵琶湖伝百十六「巡礼姿の女」

琵琶湖伝百十六「巡礼姿の女

正面からくる者たちは、一人が先頭に立ち、あとは二人ずつ縦に並ん歩いている。

男六人に女が一人である。

先頭の者は深編み笠をかぶり、他の男は何もかぶっていないが、、最後尾にいる女は、白い巡礼着に、すげ笠をかぶり、赤のくけ紐でその笠を顎に結んでいる。またすげ笠からは、うすい布がたらされていて、顔をおおっているので、はっきりと顔は見えない。

なぜか、先頭の編み笠の男は正英の方にむかって歩いてくるので、正英が避けると、編み笠の男も同じ方向に動く。

道幅は3メートルほどもあり、そう狭くはない田舎道である。

周囲は田畑が広がっている。

正英が男を避けようと動くと、男も7また同じ方向に。

それが数度、繰り返される。

さすがに正英も、閉口し、作り笑いを浮かべながら編み笠の男に、

「面目ない。道の端に我らは寄りまする」

と七人組を先に行かせようとする。

道幅が広いのだから、そこまでいう必要もないと正英は思ったが、男の底意がわからず、面倒に巻き込まれたくもなかった。

「いや、こちらのほうが面目ない。どうぞどうぞ」

男を先頭に七人組も道を譲ろうとする。

ここで正英が、

「それなら、どうも」

と気軽に応対すればよかったのだが、

「いや、そちらが通られよ」

といったので、編み笠の男は意地になったのか、

「いや、そちらが」

と返してきて、押し問答のかたちになった。

良之介が笑いながら、二人の間に入った。

「どうぞ、お先にいってください」

良之介としては気を利かせたつもりだったが、巡礼姿の女が、

「お前に何の関係がある」

とつぶやくようにいいながら、スススッと良之介に近寄り、わずか三十センチくらいの間合いから、飛び前蹴りを繰り出した。

その蹴りは、正確に良之介のアゴを捉えていたが、一瞬早く、良之介は後方に飛んで、その蹴りをかわす。

読者よ前蹴りと軽く見るなかれ。

これは作者東洋の実体験であるが、昔、剛柔流空手の猛者と対戦したとき、わずか10センチの間合いで、その猛者の前蹴りは垂直に伸び、わが額はその者の足の裏でしたたかに叩かれ、卒倒したことがある。

達人の前蹴りは、下手な回し蹴りより破壊力を持つ。

良之介も、

「これ位で、真剣になるかよ」

という油断はあったであろうが、間一髪逃れなければ、アゴの骨は砕かれたであろう。

巡礼姿の女の蹴りは、それほどのものであった。

以下百十七に続く

2007年4月17日 (火)

琵琶湖伝115「見返りお香」

琵琶湖伝115「見返りお香」

良之介は、跳躍して正英を追い、手刀で縄を切ろうとする。

その一瞬、縄が緩められ、正英の首から放れ、縄は投げた主の元に戻っていった。

良之介は、戻っていく縄の方角を見た。

その先にいたのは、意外にも二十歳前後の小娘であった。

背は一六五センチくらいか、やせてはいるが、いかにも敏捷そうで、切れ長の眼は整った顔立ちに、良い意味でアクセントを与えていた。

「お前は、甲賀信楽衆か」

良之介は眼を血走らせて怒鳴った。

昨夜の弥助につづいてのことで、良之介の心根はまだ収まっていなかった。

小娘が返事をしないうちに良之介は、跳んだ。

飛び蹴りを小娘に食らわせようとしたのだ。

良之介の飛び蹴りがこのやせこけた娘の顔面にでもあたれば、首と胴体が離れることになったであろう。

しかしこの娘は、良之介が飛んだ動きに合わせるように、跳躍して、空中で良之介の頭を飛び箱代わりに使い、良之介の頭に両手を置くと、軽々と良之介を越え、倒れ伏した正英の背後に降りた。

正英は娘が降りたのを見て、のんびりと土がついた衣服をはたきながら、立ち上がる。

「その小娘に油断めさるな」

良之介の声がひびく。

正英は右手の手の平を大きく前にだし、

「良之介、落ち着け、この娘はわしの許嫁(いいなずけ)だ」

と意外なことを口にした。

良之介は一瞬、耳を疑った。

ただ正英の背後で小さくなっている小娘の姿に、敵ではないと確信し、ゆっくり二人に近づいていった。

「今、許嫁といいましたよね。二人は結婚を誓い合っているんですか。じゃなんで、未来の旦那の首を縄で絞めたり、引きずったりするのですか。それにどうみても、おっさん狸(正英は一六〇センチ八〇キロ)に子狐ですよ。なんでそんなおいしい目に正英様はあうんですか」

「おまえ、うらやましいのか」

さすがの正英も良之介の失礼な物言いに頭にきて、大声をだす。

怒られて良之介も言い過ぎたことを正英にわびる。

「英(ひで)さん、この背の高い男の子、こわい」

と娘がいう。

「お香(こう)さん、心配しなくていいよ。きのうからいろいろあって、気がたっているんだよ。良之介といってね、いい奴だ。年は今年で二十一」

「あ、じゃ、私がお姉さんだ。良さん、初めまして。お香っていいます。今年で二十二。よろしくね」

気楽にお香から挨拶され、かえって良之介はとまどったが、

「いえ、こちらこそ、良之介といいます。失礼なことばっかりいって、申し訳ありませんでした」

とお香に素直にあやまった。

三人は桑名にむかい、歩きだすことになったわけだが、その間に良之介が聞いた話は、お香は諸国を気のむくままにさすらっていて、気がむいたら正英の家にも行き、何日も滞在したり、すぐに出て行ったりするという。

旅の費用は正英からもらうのかと聞くと、スリをして稼ぐと平気な顔でいう。

スリの世界では、見返りお香と呼ばれ一目置かれているそうな。

故郷は近江堅田(現在の

滋賀県大津市堅田

)であり、数年ぶりに実家を訪ねたくなり、その途中正英の家に寄ろうとして、偶然出くわしたということである。

投げ縄の件は、結構二人になったときは、縄で遊んでいるということで、

「どういう趣味なんや」

と良之介は突っ込もうとしたが、個人の趣味にあれこれいう必要もないかと控えた。

三人で和気藹々(わきあいあい)と話しながらの道中は、桑名までの時間を、あっという間の時間とした。

あと二キロで桑名の城下に入るというところで、良之介が笑いながら顔をあげると、向こうからやってくる七名の者の姿が見えた。

以下百十六に続く

2007年4月15日 (日)

琵琶湖伝114「関ヶ原の夜を走る」

琵琶湖伝114「関ヶ原の夜を走る」

「あぁ」

良之介が、悲しげな声を発した。

弥助のほうに戻ろうとする良之介の腕をつかみ、正英は、

「止まるな。我らが本多家の者とわかったら、本多と井伊の争いとなる。忠勝様の立場がなくなる」

と必死でさとす。

良之介はそれでも、ともに善良寺で暮らし、竜雲和尚の武術の門下生として

兄弟子にあたる弥助を見捨てては置けないと、正英に何度もいい、戻ってくれと懇願する。

正英は、子供のようになった良之介のスキを見て、点欠(内功をある程度習得した者が使える技で、相手の経穴(ツボ、穴道)を突いて気の流れを遮断し、行動を不能にしたりすること。経穴の位置によっては、止血や体内の毒を外にだせたりもする)し、良之介を行動不能の状態にすると、そのまま背中に担いで走り続けた。

良之介の弥助への情はわかる。

しかしそれ以上に、本多忠勝への思いが正英には強いのだ。

忠勝に、そして本多家に迷惑をかけぬためには、良之介の情を聞き入れる余裕などなかった。

良之介を担ぎ、正英は走りに走った。

井伊家の領地を抜け、関ヶ原に出て、大垣へ。

すでに午前五時。

大垣を抜けたところで、良之介の点欠を解いた。

.良之介は、気持ちが落ちついたのか、正英に別に不満をいわず、それどころか、

「取り乱して、申し訳ありませんでした」

と謝った。

「お前は、涼単寺で回し蹴りを食らわせ失神した石黒将監を殺そうかと、俺に冷たくいったな。そのお前が弥助の死には動揺した。敵か味方かで人間は、優しくも冷たくもなれる。しかし、本来、人はすべての死に愛情をもって接するべきであろう。敵か味方かで死を考えてはならんと思うが」

正英は、良之介が死を軽く見ているような気がして、説教じみたことをいった。

「あの男は石黒将監というんですか。正英様、命の意味とか愛情なんて考えているから、殺されかけたんですよ。身に降る火の粉ははらうだけですよ。正英様の意見として受け止めますが、それ以上のものとは考えませんよ」

良之介は、口調は丁寧だが薄笑いを浮かべ、露骨に正英の意見を軽視するそぶりをみせた。

正英は、命の大切さをこの若い武術家に今教えても、聞く耳は持たぬであろうと思った。

自分も良之介と同じくらいの年齢で、林崎甚助から活人剣をいわれ、己の武術の至らなさに気づくまでに何人の人を斬ったかわからない。

「命のことなど考えるから死に掛けた」

という良之介の言い分も事実である。

生きるとはなにか。

生命とは。

死とは何か。

良之介自身が、己の武術をもって、他者との戦いの中から、その意味を見出すしかないのかもしれない。

先輩風を吹かす必要もない。。

とにかく、忠勝様に彦根潜入失敗の報告をするために、桑名に戻るしかないのだ。

無言で二人は歩き続ける。

すでに桑名領に入り、多度柚井を通過しかけた時、ヒューッと二人の背後で音がした。

若干、先を歩いていた良之介が振り向くと、投げ縄に首を絞められ、そのまま引かれて、後方に飛ばされていく、正英の姿があった。

以下115に続く

2007年4月14日 (土)

琵琶湖伝113「人間凶器」

琵琶湖伝113「人間凶器」

正英は死を覚悟した。

そして死ぬのは悪くないと思った。

すでに正英は幾多の合戦でまた忠勝の護衛役として、何人もの敵と戦い、数え切れないほどの人を殺してきた。

今から生きても、また何人かの人を殺すだけだ。

そろそろ殺される側に立っても良い時だと考えたのだ。

石黒将監の刃が上段から下ろされ、まったく無防備となった正英の脳天を叩き割りかけた瞬間、正英は石黒将監の顔が左半分なくなり、右半分に偏っていくのを見た。

控えていた良之介が飛び出してきて、石黒将監の左ほほに、強烈な飛び回し蹴りを食らわしたのだ。

石黒将監はそのまま斜め後方に吹っ飛び、失神する。

「正英様、大丈夫でございますか」

良之介は正英を心配する。

「すまん。弱気になってしまった」

正英は正直に答える。

「今から、どうされますか」

「うん、失敗だ。逃げるぞ」

気を取り直した正英の決断は速かった。

自分たちの行動があからさまになった今、隠密裏の情報活動ができるはずもなく、彦根にいること自体、無意味である。

「この男、絞め殺しましょうか」

良之介は.冷酷にいうと 倒れている石黒将監のほうに向かう。

「その男の顔は大丈夫か」

「フッ、ちゃんとありますよ」

「なら、よい。そのままにしておけ」

正英は良之介に指示しながら、この若者のすさまじい蹴りの破壊力が、石黒将監の顔を一瞬消し去ったように見せたのかと思うと、良之介の体自体の凶器性にぞっとするものを感じた。

渡り廊下から庭に下りる三名の人影が見える。

「行こう、良之介」

正英は、塀に向かい動いた。

良之介もあとにつづく。

適当な所で、二人は跳躍し、塀の外に下りた。

寺の外に出た二人は弥助を探す。

二十メートルほど後方に弥助はいた。

「弥助さん、失敗した。逃げるぞ」

正英は弥助に声をかけ、走り出す。

良之介は正英と並走し、二人の後を弥助が追う。

「ドスッ、ドスッ」

正英と良之介の前方の地面に数本の長槍が突き刺さった。

正英たちに気づいた、甲賀信楽衆が放った槍である。

正英は止まらずに抜刀し、前方をふさいだ槍をなぎ払い前進した。

そのとき、すぐ後方で、

「ウッ」

とうめき声がし、何かが倒れる音がした。

正英と良之介が走りながら振り向くと、甲賀信楽衆の長槍に背中を貫かれ、倒れ伏す弥助の姿があった。

以下114に続く

2007年4月12日 (木)

琵琶湖伝112「井伊家石黒将監」

琵琶湖伝112「井伊家石黒将監」

障子を開けると、八畳ほどの部屋は、一面血の海であった。

その血の海の中央に、仰向けになり、頭を正英の方に向け、天井をにらむかのように眼を見開いたままの死体があった。

頭か首を切られたのかそのまわりに特に血が多い死体である。

急ぎ正英は、即死した僧侶の顔をのぞいた。

真っ赤に血で染められた死体だが、顔は血でそう汚されてはいなかった。

    ・・・・・三成・・・・・・石田三成。

その顔はまさに石田三成であった。

生きていたのか。

他人のそら似か。

世の中には似た顔の人間が、三人はいるという話もある。

正英は、どう判断してよいかわからなかった。

そのとき、渡り廊下側の襖(ふすま)が開いた。

「おぬしが、殺したのか」

襖を開いた者が、どなるような声で正英を問いただした。

すでにその声の主は刀を抜いている。

「拙者は、井伊家侍大将、石黒将監(いしぐろしょうげん)。おぬしは何者だ、おぬしが御坊を殺したのか」

さらに正英を問い詰める。

石黒将監といえば、旧武田家臣団の一人であり、井伊家の中では剛の者として知られている。

正英は、この状況で言葉を発しても無意味であることは了解していた。

「いや、その・・・・・・・」

と石黒将監にわざと声をかけ、石黒将監が

「その・・・・・・何だ」

と正英に反応した瞬間、正英はうしろむきざまに庭へとんだ。

石黒将監は猛然と追いすがろうとしたが、部屋一面に広がる血の海に足元をすくわれかける。

血はすべりやすいのである。

当然、正英は計算済みであった。

庭に下りた正英は、走りながら、

「ホウッホウッ」

と良之介のいる方角にむかい、ふくろうの鳴きまねをした。

その時、正英の右前方の闇から一条の白い光が見えた。

正英は反射的に、その方角にむかい、抜刀した。

一条の白い光は、闇の向こうの敵の抜刀であった。

正英の鞘(さや)に刀が納まったとき、無言で倒れていく敵の姿があった。

即死であった。

しまった、石黒将監以外の者がいたのか。

正英は己の腕を恨んだ。

もし真の達人なら、相手の刃先をかわし、当て身をくらわすこともできようし、もし正英ほどの腕でないなら、抜刀はせずに逃げたであろう。

いずれにせよ、俺は人を殺したのだ。

正英は悩んだ。

しかし、正英よ、今おのれの腕を嘆くときであろうか。

足音に気づき正英が振り向いたとき、すでに庭に下りた石黒将監の刃(やいば)が、正英の頭上に振り下ろされていたのである。

以下113に続く

2007年4月11日 (水)

琵琶湖伝111「闇の中」

琵琶湖伝111「闇の中」

寝静まった真夜中の深い闇の中で、正英と良之介は涼単寺の塀を乗り越え、寺院の庭の隅に降り立った。

それに合わせるかのように雲からあらわれた蒼白い月の光は、芝草の上や草むらに流れていく。

真新しい石畳の伸びていく方角に、寺院の建物があり、浮彫の円柱や、渡り廊下や、窓などがその姿をまざまざとあらわしていた。

夜のかすかな風が墓地の方から静かに吹いてくる。

「良之介、お前はここで待て。ふくろうの声がしたら来い」

そういって、正英は

「ホウッホウッ」

とふくろうの鳴きまねをした。

正英は一人で動くほうが、情報収集はしやすいと考えた。

ただ正英も後ろに眼はない。

良之介をとどめさせ、己の後ろの眼としたのだ。

三成か否かの確認をすべき問題の僧の部屋は建物の右端、その部屋の裏側に墓地の入り口がある。

右端の部屋は八畳ほどの広さか、庭に面して縁側があり上がれば障子で、渡り廊下で建物とつながっている。

僧が起きていれば屋根裏にはいりこみ、天井から確認しようとも考えたが、闇の世界が広がるだけであり、僧のことは明日以降にして、まずは井伊直政の骨を確認し、場合によっては、何本かを持ち帰ろうと思った。

方針を固めた正英が、前進をし右端の部屋の前まで来たとき、渡り廊下を部屋にむかい歩いてくる影が見えた。

庭に伏した正英は、上目づかいに、その影に眼を凝らした。

僧の姿をしている・・・が・・・その顔はまさに・・・石田三成であった。

他人のそら似、としかいいようがない。

いや、この闇が己に幻覚をみせているのかもしれない。

その僧は部屋にはいると、灯りをつけた。

僧の影が大きく障子に映る。

正英は方針を変えた。

僧の確認のための絶好の機会を逃す必要はないのだ。

急ぎ天井裏に忍び込もうと屋根に跳躍しようとした瞬間、

「ギャーッ」

と部屋から断末魔の悲鳴があがり、大きく映った影が倒れていったのである。

思わず立ちすくんだ正英だが、次の瞬間、反射的に縁側を駆け上がり、障子を開けた。

以下112に続く

琵琶湖伝110「涼単寺潜入」

琵琶湖伝110「涼単寺潜入」

正英は、弥助から三成に似た僧の部屋を地図で教えてもらい、寺院のひと続きの建物の右端、その部屋の裏側に墓地があることを頭にいれた。

事態が、三成存命の方向に流れていることを感じたた正英は、緊急を要する状況と判断し、これからの予定を良之介と弥助に伝えた。

今夜早速、涼単寺に潜入すること。

時刻は午後十一時過ぎ、三人でそろっていくが、弥助は涼単寺の外までの道案内と寺の外での見張り役で、中には正英と良之介が入ること。

涼単寺境内でのことは、その場の状況で臨機応変に、正英が良之介に指示すること。

以上を正英が述べると、弥助が、

「当然ですが、明日かあさってまではかかる仕事ですよね」

と正英におだやかにきいてくる。

「そうだな、今夜だけで簡単に済むなどと思わぬのが、自然であろう。あさってくらいまでは考えないとな」

正英が弥助にいうと、弥助は、仕入先の問屋にあさってまで休むことを言いにいきたいと言い出す。

正英は、それは当然のことわれらも早めの食事をとり一眠りすると、弥助に答え、弥助は問屋に行き、正英と良之介は養老屋の楠真由美似の仲居の握ってくれた握り飯を出して食い、そのまま仮眠した。

午後十一時前に弥助が二人を起こし、弥助の案内でふたりは涼単寺に向かった。

涼単寺は弥助の家から右手の道を二〇分ほどまっすぐいったところで、人家はまばらであり、竹林が涼単寺の右となりには広がっている。

涼単寺そのものは、縦も横も三百メートルほどの敷地のなかにある大きな寺院であった。

正面の入り口には、四名の侍の姿が見え、寺の周りは一定の間隔で長槍を持った者たちが五名一組で動いていた。

甲賀信楽衆である。

正英たちは、涼単寺の長く続く塀の中ほどから、二メートルほどの塀を飛び越えて境内の庭の辺りに下り立とうと、塀から三十メートルほど離れた地面に伏し、闇とひとつになって、機会をうかがう。

「正英様、普通の寺ならこのような警戒を絶対にしませんよ」

寺育ちの良之介がささやくようにいう。

正英はそれを無視して、弥助に

「三成ゆかりの甲賀組がこの寺の警護をしていること自体、この寺は尋常な寺ではありませんね」

と弥助にいう。

「たしかに」

弥助は、ひとこと答える。

甲賀衆が目標の塀を通過したとき、正英は、弥助にここで待機することを命じ、

「いくぞ」

という気持ちを込めて、良之介の肩を軽くたたいた。

その瞬間、正英と良之介の体は、宙にフワリと浮き、そのまま、涼単寺の塀の中の人となったのである。

以下111に続く

2007年4月 8日 (日)

琵琶湖伝一〇九「彦根の弥助」

琵琶湖伝一〇九「彦根の弥助

まだ陽の高い午後三時過ぎに箱根に着いた正英と良之介が、目当ての弥助の家を探し当てるのは、難しいことではなかった。

孫六の地図と良之介が前に来たときの記憶を頼りに着いた弥助の家は、小さな店が軒を並べる一角にあった。

弥助は竹細工の職人をしており、家の前にはさまざまな竹で作られた品物が置かれている。

「弥助さん」

良之介が家の外から声をかけた。

「どちらさまで」

と家の中から声がした。

「良之介です。わかりますか」

さらに続けると、家の中から一七〇センチくらいのやや細身の、いかにも精悍そうな顔つきの男がでてきた。

「なんだ良之介か、どうした」

弥助は意外な面持ちで良之介を見、それから正英を見て、首をひねり悩むような格好になった。

おそらく孫六から何の連絡もなかったのだろうと察した正英は、小声で、

「本多家のものでござる。中でお話をしたいのだが」

と弥助にいう。

弥助は、何も言わずに、外に出していた細工物を中に直し始める。

正英と良之介はそのまま弥助の家に入った。

正英が弥助に自分たちが彦根に来た理由、つまり直政の死因の調査と三成存命の噂の確認、を告げると、案の定孫六からなんの話も弥助にはなかったことがわかった。

ただ幸運だったのは、お耳役としてもう七年、彦根で情報収集に当たっている弥助だけに、新しくできた涼単寺が井伊家と関係が深いことから、すぐに調査し、大まかな見取り図をつくっていたことである。

「こんな絵図で、もうしわけないのですが」

弥助はすまなさそうにいった。

「いや、建物の配置や井伊家の墓の場所も¥がわかるんだから、充分ですよ」

正英は、弥助に心配をかけさせないようにいった。

「でも、建物の内部については、細かく調べられなかったんですか。弥助さんなら、そこまでできますよね」

良之介は昔なじみの気安さで、若干の不満を弥助にいう。

良之介の不満に対しての弥助の答えは、非常にこの涼単寺は警備が厳しく、昼夜を分かたず、井伊家の侍と井伊家に雇われている甲賀衆が監視していて、何時間もじっくり調べるゆとりがなかったということであった。

「なぜ甲賀とお分かりか」

正英が問うと弥助は、

3メートルほどの長槍をもっている十名の者がいて、その中に甲賀伝兵衛(こうがでんべい)の顔がありました」

といった。

甲賀伝兵衛とは、甲賀五十三家のなかでも長槍使いの家として有名な信楽(しがらき)衆の頭領である。

赤ら顔の大男で、そう見誤るものではない。

石田三成の下で忍びとして働いており、三成支配の彦根時代に弥助が調べ済みの顔であった。

正英も三成と甲賀伝兵衛の関係くらいは知っている。

甲賀伝兵衛がなぜ井伊家の者たちといるのか。

弥助の話は、正英の心の中で、三成存命の噂に、俄然、信憑性(しんぴょうせい)を帯びさせたのである。

「弥助さん、井伊家に甲賀伝兵衛の取り合わせは不自然すぎますね」

正英の感想に弥助もうなずき、

「実は忍びこんだとき、寺院の中で、墓地の入り口に近い部屋から出てきたお坊様が、石田三成にそっくりで驚きました」

と付け加えた。

以下110に続く

2007年4月 4日 (水)

琵琶湖伝一〇八「電瞬一撃」

琵琶湖伝一〇八「電瞬一撃

しかし、正英の納得はあくまで良之介の常識への納得であった。

七〇を越えた老人と、今、己が戦えば、常識的には「若い」己が勝つであろう。ただ真の内功の達人は、年をとればとるほど体内の「気」の力を上げていくといわれている。
もし
「平安百勝」が今も生きているなら、戦う「意味」があるとも思えたが、その点で良之介と議論をしようとは思わなかった。

なぜならそれ以上に、正英の心を悩ませることがあったのだ。

何かといえば、己の「居合い」の必殺性であった。

孫六にしろ、竜雲にしろ、いや他の敗北者も皆、美里拳論会で負けても死んだ者はいないのだ。では己が「居合い」で拳論会にでたらどうであろう。

生か死しかないのである。相手が死ぬか正英自身が死ぬかなのだ。

居合いは、電撃抜刀の武道であり、先に抜いて攻撃してくる相手に対し、鞘に納めている己の刀を生死の境ギリギリまで抜かず、抜いた瞬間には相手を倒さねばならぬ技である。
十六世紀の後半に「居合い」道を創始した林崎甚助(はやしざき じんすけ一五四二~一六一七)は、居合いの極意を「居合の生命は電瞬にあり」と抜刀の際の一撃こそが居合いであるとのべているほどだ。

正英は、十代のころ忠勝から「居合い」という新しい武術の存在を聞かされ自分なりに、いかに速く抜刀するかを研究してきた。

一五九〇年徳川家康の「関東入国」にともない大多喜(現在の千葉県大多喜)に家康より封じられた忠勝は、翌年正英に大きなプレゼントをする。
林崎甚助は
出羽国楯山林崎(現・山形県村山市楯岡)の出であり、かの地で暮らしながら居合いの道場を開いていた。

忠勝は、その林崎の元に、正英を一年間武術留学させたのだ。

正英は、林崎の厳しい指導に耐え、一年後林崎夢想流免許皆伝の目録を受ける。大多喜に戻る日、林崎甚助は正英に、言葉を送った。抜かずに勝つために、電瞬一撃の修行を怠るべからず」

居合いは最終的には平和のための道具であり、世の人々に剣を抜かせぬために居合いの修行はすべきなのだ、という意味であり、「居合い」という殺人剣を創始した林崎が、「居合い」を「活人剣」にするための言葉であった。

それから十年以上が過ぎた今、正英の胸に去来するのは、己の居合いがいまだに、殺人剣以上のものになってはおらず、活人剣の域に達していないことへの反省であった。
もし真の居合いの達人なら、敵と向かい合っても、生か死かではなく、互いの「生」しかないはずなのだ。

良之介は、先を行く正英の背中が何かに耐えているように見え、

「正英様、物思いにふけっておられますか」

と声をかけた。

正英は振り向き、

「良之介、中原中也の「帰郷」という詩を知っているか」

と逆に問う。

「いえ、知りませんが、どういう詩ですか」

「こんな詩だよ。

心おきなく泣かれよと

年増の低い声がする

あぁ、お前は何をしてきたのだと

吹きくる風が私にいう」

すでに路傍の道標は「彦根まであと半里(約二キロ)」と記している。

晩秋の寒風が、正英と良之介の跡を追ってきていた。

以下一〇九に続く

2007年4月 2日 (月)

琵琶湖伝一〇七「平安百勝」

琵琶湖伝一〇七「平安百勝」

「フーン、腕だめしか。美里村の代表者との勝負は、雑賀や根来との勝負以上に、他派にはきついだろうな」

「いや、腕試しといいましても、美里村の方の背後に回れれば、門の通行を許すというもので、真剣勝負ではなく、かなり形式的なものです」

「背後にも回れぬ者は参加してもしかたないしな。それで新しい形の大会が一五五〇年から始まったわけだ」

「「美里拳論会」は、五〇、六〇、七〇、八〇、九〇年とその後五回開かれ、一六〇〇年の大会は、関ヶ原の戦いで武術大会どころではなくなり、中止になります。八〇年の優勝者が孫六様。九〇年の大会は、決勝で孫六様に負けた竜雲和尚がリベンジを果たすために修行に修行を重ねたのですが、諸国を遍歴していた孫六様は不参加でした」

「竜雲様も残念だったな」

「えぇ、九〇年の準決勝は、竜雲様と堅田水舟拳の使い手岡本邦源様、もう一方は古今天真拳を使う細川幽斎様と織田信長様の側近で信長様亡き後仏門に入られた三井園城拳の大田牛一様」

「良之介、堅田水舟拳の岡本邦源といえば、近江堅田(滋賀県大津市堅田)の堅田湖族衆総代の岡本邦源様か」

「そうですよ、正英様、お知り合いですか」

「いやぁ、ちょっとな。それで邦源様に竜雲様は勝ったわけだな」

「はい。そして細川幽斎様と大田牛一様の空中書対決は、細川様がお勝ちになり、決勝は竜雲様と細川様でした」

「竜雲様は細川様にも勝ったんだ。すごいな」「ただ、決勝は細川様が、岡本様に勝った竜雲様に勝てるわけがないと辞退され、竜雲様の不戦勝になったそうです」

「ふーん、岡本邦源様の力も凄かったわけか」

「そうなりますね」

「良之介」

「はい」

「次の大会は一六一〇年か」

「そうです」

「次の大会には一緒にでようね」

「出たいですね・・・アッ・・・六〇年の大会は対外的な問題はなかったのですが、中止になったんですよ。参加者全員が、当日午前九時までに美里村の門をくぐれなかったということです」

「エッ・・・台風か何かあったのか」

「いえ、門の前に立っていた美里村の代表者が、参加条件を勘ちがいして、雑賀や根来の方々を含め参加者全員と真剣勝負をし、門前で全員を戦意喪失に陥らせたというのです」

「何と。全員を・・・強すぎるな。当然、外功では体力的限界があろう。すさまじい内功の持ち主が、美里村にいたわけだ」

「そうです。なんでも、美里正拳の奥義「平安百世(へいあんひゃくせい)」という技を使ったそうです」

「どんな技かわかるか」

「竜雲様もわからないといってました。ただその美里村の代表者の名前を、美里村では隠し、「平安百勝」という名でその者を呼び、その者ではなく表様が参加者全員にわびたそうです」

「平安百勝か。戦ってみたいな」

「それは無意味でしょう。美里正拳の奥義「平安百世」という内功を完璧に使えるとしたら、おそらくその時点で若くても三〇歳ですよね。ならばもし今生きているとして、もう七〇を越えているはず。そのような老人と戦って勝っても威張れませんよ」

「生きていれば確かに、七〇は越えているな。戦っても仕方ないな」

良之介の言葉を繰り返し、納得顔の正英であった。

以下一〇八に続く

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