琵琶湖伝百三十七「堅田湖族衆」
琵琶湖伝百三十七「堅田湖族衆」
才蔵が去って数時間。
午前四時の湖西を抜けてゆく街道を通る人影など、どこを見回してもあるはずがない。
ただ月の光が、草の波を銀色の海に見せるばかりである。
「オヒヨォッ」
うめくようになんとも言えぬ声を発しながら、闇の底からすっくと起き上がったものがいる。
高西暗報である。
立ちくらみでもしたのか、傍らの地蔵様の頭に手を置き、二三度頭を振る。
そのあと両手を挙げ深呼吸をし、
「こんな風にすぎていくのなら
いつかまたどこかで誰かに出会うだろう
何もかも隠してくれる
夜のとばりをくぐり抜ければ
今夜ほど寂しい夜はない
そうさ今夜は世界中が雨だろう」
浅川マキの「こんな風にすぎていくのなら」を口ずさみながら、まだおぼつかない足取りで、月明かりを頼りに唐崎にむかい歩きだした。
いったいこれは、どういうことなのか。
才蔵は、暗報の死を確かに確認したはずである。
なのに、なぜ。
それは才蔵の常識をはるかに越えた暗報の凄さと言うしかないことであった。
暗報は、立ちふさがる才蔵の腕を冷静に見極め、まともに戦えば分が悪いと判断し、東命寺派の奥義を極めた毒使いしか創ることができない、秘薬「黄泉参り(よみまいり)」を、心筋梗塞の発作の芝居をしながら倒れこんだ時に飲んだのである。
「黄泉参り」は瞬時に使った者を死に至らしめる。
ただし、数時間後にはその者を蘇生させる薬であり、まさに黄泉の国、あの世に行ってこの世に戻ってくることから、「黄泉参り」という名がついたのである。
その暗報が、山内記念と霧隠才蔵に連れられて青葉屋に戻ったのと同じ時刻に、井原正英と市来良之介は近江堅田(滋賀県大 大津市
堅田は琵琶湖最南部大津の近くでその両岸の幅の最も狭いところに位置する。、近江八景「堅田落雁」 で知られる浮御堂は現在でも有名な景勝地だが、古代から中世と、その位置的優位性から、湖上交通の要衝として栄えていく。
中世以後堅田荘には「堅田三方」(後に一つ増加して「堅田四方」となる)三つの惣組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる「堅田衆」による自治が行われており、「堅田湖族」とも呼ばれてもいた。殿原衆は堅田の水上交通に従事して堅田船と呼ばれる船団を保有して、時には海賊行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、堅田衆の指導的な地位を確保していた。一方、全人衆の中には商工業によって富を得るものも多く、殿原衆との共存関係を築いてきた。
堅田衆は戦国時代の後期には、近江を支配した織田信長、そのあとの秀吉の支配のもとで中世ほどの発展はなかったが、それでも徳川期になっても湖上交通の要衝として経済的な富は蓄積されていった。
一六一七年には、幕府が直轄地として大津代官所を設置し、堅田は大津代官に従属した。
正英と良之介は、堅田にはいったのは良いが、お香の家を知らず、お香の父が堅田水舟拳の使い手であるとともに堅田湖族衆総代という高い地位の人間であることを思い出し、夜遅くもあいている居酒屋や旅籠を聞き聞き、なんとか浮御堂の手前にあり、高い黒塀に囲まれた大きな家だとわかった。
浮御堂は堅田の湖中に浮かぶ御堂であり、約1,000年前に開かれたといわれる寺で、大津の代表的な景勝地である。}近江八景『堅田の落雁』で名高く、老松に調和して建つ浮御堂の姿は、実に風雅。
そのすぐ近くの岡本邸を目指し、民家の並ぶくねくねと蛇行した道を歩いていく。
茶店がまだあいていて、道の確認をすると、この道をまっすぐ行けば、岡本邸とのことである。
安心してそのまま行くと、黒塀が続く大きな家にたどり着いた。
入り口には提灯が掲げられ門番までいた。
ちょっとした大名の屋敷のような雰囲気である。
岡本様のご息女の知り合いと、門番に二人が、お香への取次ぎを頼むと、訝しそうな顔で屋敷に戻っていった。
戻ってきたときは、笑いながら、お香様の許嫁(いいなずけ)とはしらず失礼の段お許し願いたいといい、主人岡本邦源が一献差し上げたいと申しておりますからどうぞこちらへと、二人をさそった。
正英と良之介は、門番のあとについていく。
以下百三十八に続く


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