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2007年7月27日 (金)

第三部江湖闘魂完結編158「空中決戦」

第三部江湖闘魂完結編158「空中決戦」

猿飛は、山伏の殺気を自分の気で受け止めるや相手の気までも自分のエネルギーに変え、力強く地面を蹴った。
その位置のまま、垂直に十メートルほど上がり、山伏に向かって急降下した。
その場での「信濃忍法さるとび」だけに、勢いには欠けるが、それでも十メートルの高さからの攻撃である。
一瞬のうちに八本の手裏剣が、山伏に降り注ぐ。
其の時、なんと山伏も地面を蹴り、宙に舞い上がったのだ。
山伏は、上昇しながら金剛杖で手裏剣を払い落としていく。
当然、猿飛佐助は下降している。
両者がほぼ同じ高さで、すれ違おうとした瞬間――。
山伏は、金剛杖を突き出した。
猿飛は、相手の動きに驚いていた。
今まで自分と同じような跳躍力の人間に会ったことがなかったのだ。
真っ直ぐに突き出された杖から何とか身をかわし、地面に降りたが、バランスを崩し、着地に失敗して転がる格好になる。
そこを狙って、今度は下降してきた山伏の金剛杖が猿飛の脳天に振り下ろされた。
常人ならばここで脳漿が飛び散ったであろうが、猿飛は常人にあらず。
瞬間移動、テレポーテーション(テレポーテーションという現象は人がある場所からある場所へ時に数千キロ、時には数メートルと、物理的に移動不可能な距離を瞬時に移動してしまう現象である)したのかというほどの速さで金剛杖を避けるや、着地した山伏に背後から切りつけた。
その刹那、山伏は装束だけを残し、三十メートルほど向こうにその姿を見せていた。
山伏の装束を捨てた忍びは、黒装束で立っている。
「おぬしは伊賀者だな。今のは伊賀忍法の奥義のひとつ、「雲霞(うんか)」であろう」
猿飛は、己の刃(やいば)をかわした忍者の技を評した。
評された男は、何も言わず胸の前で印を結んだ。
すると、突如大量の霧状のものが男をつつんだ。
それが晴れたとき、すでに男の姿はなかった。
わずかに鳥の声が聞こえるほどの静けさの中で、猿飛は普通の歩き方に戻っていた。
後を附けてきた者の気配は、完全に消えている。
真夜中に京都に入った猿飛は、菊亭の屋敷に入った。
それからしばらくして、猿飛の動きを確認した伊賀者が京都所司代にむかった。
猿飛と空中戦を演じ、霧をはり、その後、己の気配を猿飛にまったく感じさせずに尾行を完遂したこの男の顔に、筆者東洋は見覚えがある。
そう彼こそ数週間後、逢坂山で仲間の死に涙し、暗報と宮内平蔵の居場所を山内記念とともに突き止め、暗報を黄泉の国に遊ばせた男、霧隠才蔵であった。
一人で菊亭の跡を追った河田のみでは尾行はできまいと考えた喜市包厳の指示で、霧隠は山伏姿に変装し河田を追って紀州に入り、その直後、九度山を降りていく「ただならぬ」男を発見し、尾行を開始したのた。
京都所司代の屋敷内で、霧隠は喜市に怪しき者を追って、危うく殺されかけたこと、そしてその者が菊亭晴季と関わりがありそうだという報告をした。それを聞いた喜市は、
「真田の者で、お前と五分に戦えるのは、ただ一人だな。そやつこそ、甲賀流信濃忍法の継承者、猿飛佐助だ」
と言いさらに、
「殺されるくらいの敵に出会えてこそ、忍びは強くなる。手強い相手の「気」を己の「気」で受け止めて、お前の「気」はさらに高まっていくのだ。われら忍びは野ざらしとなる宿命だが、せっかくなら、強い敵と技の応酬をして、その果てに死にたいものよ」
と付け加えた。

霧隠は後年、「雲か霞(かすみ)か霧隠才蔵」といわれ、伊賀を代表する大忍者となった者である。

以下159に続く

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2007年7月23日 (月)

第三部江湖闘魂完結編百五十七「猿飛 京への道」

第三部江湖闘魂完結編百五十七「猿飛 京への道」

後を附けられている。

猿飛佐助は、そう思った。

尾行される恐れは充分にあり、猿飛はそれなりの用心もしていた。

高野山麓の九度山をあとにするときは、北へ向かってすぐに大和街道に出るのが普通であるが、わざわざ遠回りをして、西高野街道へ出ようとしていた。

それも尾行されることを、警戒してのことであった。

九度山に蟄居する真田父子の動きを、徳川方はひどく警戒し厳しい監視下にある。

まだ時代は関ヶ原の合戦が終わって二年とわずか。

真田昌幸・幸村父子は直接、関ケ原の合戦には参戦していない。

だが、昌幸・幸村父子は信州上田において、徳川秀忠の大軍と一戦を交え、多大の損害を与えている。

第一部で述べたが、もし本多忠勝が娘の夫である真田信幸に同調し命を賭けた訴えを家康にしなければ、真田父子の命はなかったのである。

家康はやむを得ず生かしたのであるが、やはり真田父子の存在が気になり始めていた。

いまのままでは、豊臣方の招きに応ずるかもしれない。

敵に回すと、厄介な真田父子である。

そうかと言って、急に赦免して、手のひらを返したようにもてなして、味方につけるというわけにもいくはずがない。

そこで家康は、和歌山を領有する大名の浅野家に、九度山の動きを徹底的に監視するように命じたのであった。

しかしそれだけでは不安な家康は、服部半蔵配下の多数の伊賀者も内々に置き、九度山の動静と、出入りする者たちに目を光らせていた。

その九度山を密かに、抜け出した猿飛佐助だったのだ。

真田屋敷から逃げた忍びの者を倒し屋敷に戻った猿飛に対し、幸村は翌朝の出立を命じた。

幸村の命で菊亭晴季の下で「信長の遺書」を探すことになった猿飛は、菊亭が表向きの目的である、高野山参詣のために高野山に向かい、猿飛一人で京都の菊亭の屋敷に行くことになったのである。

西高野街道を下り始めたとき、太陽はすでに猿飛の真上に来ていた。

徳川方の手の者の眼をかいくぐることなど、猿飛にはたやすいことであったが、それでも用心のための西高野街道であった。

しかしそこまでしても、後をつけてくる者がいたのだ。

背後に感じる人影は、山伏の姿をしている。

山伏は、山岳修行により宗教的な能力を身につける。

「山に伏す」ことから山伏(山臥)といわれた。

特定の霊場寺社に拠点をもちつつも、各地の霊山を渡り歩いて修行する「旅の宗教者」でもあった。

その山伏は頭に、兜巾(ときん 修験道の山伏がかぶる小さな布製の頭巾(ずきん))をかぶっている。

また、左手首に念珠を巻き、右手には金剛杖を持っていた

山伏に化けている徳川方の者か、それとも高野山で修行中の本物の山伏なのか、判断は不能であった。

判断するためには、何をしたらよいのか。

結論がでた瞬間、猿飛は走りだした。

時速四十キロ。

常人には考えられない凄まじい速さで走った。

千メートルを一気に駆けた。

次第に並足に戻していく。

やはりまだ、背後に視線を感じた。

同じ山伏が、息も切らずについてきていた。

もう遠慮はいらない。

この山伏は、明らかに忍びだ。

猿飛は足を止めた。

山伏も立ち止まる。

お互いの殺気がぶつかり、空気が波立ってきていた。

以下百五十八「空中決戦 霧隠才蔵」に続く

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2007年7月14日 (土)

第三部江湖闘魂完結編156「信濃忍法さるとび」

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第三部江湖闘魂完結編156「信濃忍法さるとび」

「ならばもし合戦となった場合、敵に持たせず、こちらが絶対に手にいれたいたいものがおじゃるのだが」

(豊臣への尽力依頼は、うまくいったわ)

菊亭は内心のうれしさを隠して淡々という。

「信長の遺書ですな」

幸村がいえば、

「ほしいよな。天下無敵になれるのだから。大田牛一が持っているというが、大田がどこにいるのか」

昌幸が嘆息まじりにいう。

菊亭が、

「長岡の寺でらや嵐山の天龍寺あたりに住んでいたということまでは、調べたのだが、わしの手のものの力ではそこまでだった」

とまたも「エサ」を撒いた。

「菊亭様の御家来衆でそこまで調べられるなら、ここにいる猿飛は確実に太田を探せますな」

昌幸が笑いながら答えた。

(本当によく食うわ、こいつら)

そう思いながら菊亭は、表向きは下手に出る。

「御協力願えますか」

「任せなさぁーい」

父子はまたも右手を高々と挙げた。

「ありがたい。感謝でおじゃる」

(これでここまで来た甲斐はあったな。「信長の遺書」の探索と豊臣家への尽力の依頼、両方アッという間に終わったわ)

そうほくそえみながら、眼からはウソ涙。

「泣かんで下され」

真田父子はなんと、もらい泣きをした。

昌幸は涙で鼻水まで垂らしだしたが、幸村はすぐに涙をふき、

「菊亭様、この猿飛をお貸しもうす。いかようにも使って下され」

そういった瞬間、幸村は脇差を抜き天井に投げた。

天井に刺さった脇差を通して、血が畳に滴り落ちてきた。

その時には、もう猿飛は、庭に飛び出していた。

夕暮れのうす暗がりのなかで、脇差が刺さったか、右肩を押さえながら、凄まじい速さで逃げていくひとつの影を、猿飛の眼は即座に捉えた。

その距離は三百五十メートル。

猿飛は、右後方の楠の大木に向かい走った。

そして木に飛び蹴りをする。

木にあたる衝撃から来る弾性力を利用し、その反作用をエネルギーに変えて、猿飛は空中を飛んでいった。

これぞ甲賀流信濃忍法の奥義「さるとび」である。

発射角度四十五度で空中に飛び出した猿飛は、地上四十メートルほどで、姿勢を立て直し、地面と水平にして逃げる曲者を追尾した。

すぐに追いつくと、頭を下向きにして急降下をしながら、十数本の手裏剣を曲者に向かい投げかけた。

まさか鷹のように人間が空から襲ってくるなどとおもっても見なかった逃走者は、何本もの手裏剣を受け、猿飛が着陸したときには、すでに虫の息であった。

猿飛は、どこぞの者かと聞こうとも思ったが、徳川の忍び者であることは聞くまでもないことで、絶命を待って眼を閉じてやり、また「さるとび」の術を使い真田庵に飛び戻って行った。

死んだのは、猿飛の予想通り徳川の伊賀忍者であった。

名は、河田無為二郎三郎(かわだ むいじろうさぶろう)、通称「カムイ」と伊賀者の仲間内では呼ばれていた男であった。

当然だがあの有名な抜け忍カムイとは別人である。

京都所司代付きの伊賀者であり、菊亭晴季という今や宮廷内の政治から疎外されつつある人物への監視役として、一人その任に着いていた。

その仕事に忠実な河は、京都を離れた菊亭を追い紀州真田屋敷まで来て、この悲運にあったのである。

松尾芭蕉の俳句に、

野ざらしを

心に

風のしむ身かな

というのがあるが、まさに忍びの者への鎮魂歌である。

カムイもまた野ざらし(行き倒れとなり、野に白骨となっている有様のこと)になるしかないのだ。

猿飛が眼を閉じてやったのは、同じ忍びの世界に生きるものとしての礼儀であった。

隠密同心心得の条

「死して屍(しかばね)拾う者なし。死して屍(しかばね)拾う者なし。死して屍(しかばね)拾う者なし・・・・・・」

以下157に続く
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2007年7月12日 (木)

第三部江湖闘魂完結編155「元気です真田です」

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第三部江湖闘魂完結編155「元気です真田です」

「突きまくって突きまくってガンガンやりで、グハハハッ」

「やはり、お若い。麿(まろ)はもう六十と三つあまり。とてもそのような元気は」

「何の何の、南野陽子。わしとてもう五十五歳。から元気でござる」

「で、そのあとは私がガンガン突きまくりで、腰をいれてしっかり突きました」

「まぁ、そのあとは息子殿が、親子そろってがんばりますなぁ。ホホホホホッ」

扇子を口にあてながら笑うのは、従一位右大臣菊亭晴季(きくてい はるすえ)である。

話は若干さかのぼり、一六〇二年十月の終わり。

場所は紀州九度山の真田庵。

すでに冬の足音が聞こえる山の秋の夕暮れ。

真田庵に集いしは、菊亭晴季とこの庵の主である真田昌幸と息子の幸村、そして三名から離れて護衛役の猿飛佐助が座っている。

真田父子は、菊亭の訪問を自分たちが捕まえた、いのししの鍋で迎えた。

そして、檻(おり)の中にエサを置き、いのししを誘い込んで檻を閉める仕掛けの話をし、さらに檻に入ったいのししを出来るだけ傷つけずに殺すため(良い肉を得るには、槍の一突きで殺すのが最良。鉄砲などでいのししの部位を損傷させるのは下の下の狩猟法である)に槍をどう突いたかを、

「突きまくってガンガンやり()で」

としゃべっていたのである。

今読んでて、変なことを考えた人いませんか―。

元に戻りま―す。

江戸時代に作成された『真田家系図』に拠れば、真田氏は清和源氏の発祥で、数代を経て昌幸の父幸隆の時代に信濃真田郷を領して以後、真田姓を名乗るようになったという。

もともと京都の公家とつながりの深い家柄であり、昌幸は菊亭家ゆかりの娘を妻としていて、菊亭家とのかかわりは古くからあった。

ただ、いくらかかわりがあっても、真田父子は徳川家により、紀州九度山に幽閉されている身である。

菊亭家と真田家のあいだで自由な往来など出来るはずがない。

菊亭晴季は、高野山参内の名目で京を出て、高野山の通り道にあたる九度山の真田庵にひそかに入ったのである。

なぜそこまでして、紀州に来たか。

真田父子に、「信長の遺書」の探索と事あるときは豊臣家のために再度立ち上がってくれることを、頼みにきたのである。

言い換えれば、わざわざこの一六〇二年の十月の終わりに危険を冒しても、紀州に来なければいけない事情が菊亭晴季にあったのである。

それは徳川家康の源氏長者と征夷大将軍任命への動きの活発化であった。

来年の初めにも詔(みことのり)が出る可能性があり、最後の詰めのため、現在駿府にいる家康自らが、十一月か遅くとも十二月までに天皇に内密に拝謁し、会談をするという情報が菊亭の元にもたらされたのである。

ただその情報は朝廷内では公然の秘密であり、既定の路線ともいえるものだった。

ここで菊亭晴季について述べれば、秀吉に関白任官をもちかけ、その功績で秀吉から従一位をもらた男であり、豊臣と朝廷のパイプ役であった。

関白は、百官を統率して政務万端を行なう。

天皇の代理を務める摂政と、実質的には違わない。

摂政は、天皇の宣命を代書することが許される。

関白には、それができない。

摂政と関白の違いは、それだけのことである。

関白になることができたのは、日本史上藤原氏以外に豊臣秀吉とその甥の秀次の二人しかいないのであった。

つまり、菊亭は氏素性がこれほどはっきりせず、超のつく成り上がり者である秀吉を、日本一尊い豊臣家に作り変えた手品の仕掛け人であり、実行者であった。

秀吉が褒美に菊亭に従一位をやったのは、当然のことである。

しかし、今はどうか。

秀吉は死に、関ヶ原以後、時代は徳川であり、朝廷内では徳川のパイプ役勧修寺晴豊の勢いに押され、また反徳川派の首魁、関白九条兼孝は武家嫌いで、豊臣とも距離を置こうとしていた。

歴史という大河の大きなうねりの中で菊亭は、岸に打ち上げられた魚であった。

もう一度、水を求めるためには、家康に対抗できる力を豊臣が持つしかない。

しかし大阪城の幼い秀吉の遺児秀頼のまわりには、軍事的にも政治的にも実力ある者がいない。

来年にはあろう、徳川家康の源氏長者と征夷大将軍任命の詔が出るまでを座して待つことなど、菊亭に出来るはずがなかった。

もし「信長の遺書」が手に入り、さらに真田父子が豊臣家の支えになってくれたら、これほど心強いことはない。

真田父子は、菊亭にとって最後の頼みの綱であった。

「今の状況は革命でおます。信長のパープリンが死んで秀吉さんは、公家側の関白さんでがんばってくれはった。日本古来の公家の祭り事の時代が到来したんです。それをあの勧修寺が狂ったように徳川家康こそ日本を救うお方、源氏長者と征夷大将軍任命をと歌いまわってとうとう、任命直前の段階になっておる。パートヨ(はるとよ)の武家びいきは朝廷の存在意義を消し去るものでおじゃる」

菊亭は、真田父子を前に、ため息まじりに言ったのである。

家康の源氏長者と征夷大将軍任命の話を聞いて、真田父子は驚く。

「家康のカスが征夷大将軍になって幕府を開けば、朝廷以上に豊臣の存在意義は消えていきますな」

昌幸がいった。

「そうでおじゃる。麿も豊臣もバッタンキュ―と倒れて終わり。昌幸がもう一暴れといっても、お前も何もできぬよな」

菊亭はわざと昌幸を挑発し、昌幸のケダモノじみた闘争心に火をつけようとした。

「誰ができねぇんだあよ」

もう一人のケダモノ、息子の幸村が乗ってきた。

「できはるなら是非、豊臣のために一肌脱いで下さらんか。豊臣とてこの状況を指をくわえて見ているわけにはいかんからな」

「任せなさぁーい」

真田父子は、同時に、右手を高々と挙げて同意した。

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2007年7月 6日 (金)

第三部江湖闘魂完結編154「伝説 雑賀孫市」

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第三部江湖闘魂完結編154「伝説 雑賀孫市」

「孫六様、もし実在するなら「信長の遺書」は、我ら徳川が手に入れねばなりませんな。反徳川の者が探し出せば天下の大乱は必至」

正英が顔を強張らせていう。

孫六は十蔵を見張り役として、彦根涼単寺の天井裏に一人入り石田三成を確認した時、三成と広瀬は「信長の遺書」の在りかについての話し中であったことを皆に教えた。

「では、広瀬たちは太田様の居場所を知っているので」

十蔵が孫六にきく。

「いや、具体的には知らぬようだが、京都かこの近江のどこかにいるといっておった」

孫六が答える。

「この広い日本の中でなぜに京都か近江なのですか。当てずっぽうの推測ですね」

正英がやや安堵の表情をする。

孫六が顔を曇らせていう。

「実はわしも太田様がこの近江か京都にいるのではないかと考えていたのだ。太田様は僧の資格をもっている。太田様ほどの方が秀吉様亡き後、皆目、行方知れずなど、ありえるはずがない。となれば灯台もと暗し。京都や近江には大小さまざまな寺が、数え切れないほどある。その寺の一つに住職にでもなって潜んでいれば、これはわからぬであろう」

「すると、井伊のやつらは太田様の居所を」

正英がいう。

「わからぬ。探し当てているのかどうか。そこでお香さんに京都の長岡にある高明寺(こうみょうじ)に行ってもらいたいのだ。井伊のものどもより先かどうかは分からぬが太田様を探し、「信長の遺書」を手にいれる努力はすべきだろう。その高明寺で寺男をしている木兵衛(もくべえ)というものに会ってもらいたいのだ」

お香は、

「木兵衛さんに会ったらいいことあるんだ」

と微笑む。

孫六も微笑みをかえしながらお香にいう。

「木兵衛さんは昔からの大田様の顔なじみでな。そうだな、信長様の雑賀攻め(一五七七年)のときに交渉役として太田様が来て以来の友人関係だから、二十数年のつきあいかな。きっと太田様について詳しく教えてくれるはずだ。」

「孫六様、私には木兵衛という方が、どなたか分かりました。それ以上いうべきではないかと」

元雑賀衆の十蔵がかなり厳しい口調で孫六の話を制した。

予想外の十蔵の行動に正英は驚きを覚えながら、ひらめくものがあり、それを口にした。

「木兵衛とは、あなた様の兄にして、あの雑賀鉄砲衆の頭領であった、雑賀孫市様では」

この状況なら正英の推測は難解ではなかったであろう。

織田勢との交渉をするとすれば、雑賀衆頭領の雑賀孫市がまず頭に浮かぶはずだ。

まさにその通りであった。

琵琶湖伝五十で述べてが、兄孫市と孫六は秀吉軍の包囲網からの決死の脱出に成功し、紀伊を抜け、大和の国に入り、大和郡山まで逃げのびたのち、孫市は己の路銀の全てを孫六にわたす。
 「雑賀がこのような事態に陥ったのは、指導者たる自分の責任が大
きい。今から京都の知り合いの寺を訪ね、どこぞの寺男として生き、
死んだ者たちの供養をしながら生きようと考えている。二度と世間には出ない。お前は、雑賀にこだわらず、好きなように生きよ」

そういうと、孫市は京への道を歩み、孫六は、自分探しの旅に出て千葉大多喜で本多忠勝に会う。本多家お耳役の責任者になった孫六は、自然と京都を回ることが多くなり、六年前に長岡の光明寺で兄と偶然再会したのである。世を捨てた兄の意思を尊重し、そのあとは何度か手紙と生活の足しにと幾分かの金を送っただけであった。

孫六は十蔵に落ち着けというように左手を軽く上げ、

「いいのだ。世を捨てた身とはいえ、兄も天下の平和のためなら、世俗の垢にまみれることを、いとわぬはずだ」

といった。

「あの伝説の雑賀孫市に会えるんだ。しあわせ」

お香は唇を震わせ、伝説の英雄に会いにいける幸運をかみしめていた。

そのとき、良之介が突然いう。

「ところで太田様は、「ぎゅういち」といわれますが、「う(しかずともいわれますよね)」」

良之介の言葉は、「う(しかず)」の「う」までで終わることになった。

危険を察知した正英、お香、十蔵の三人が一斉に飛び掛かり良之介の言葉を封じたのである。

世の中には、「もっとも簡単な言葉で誰でも言えるが、ある者の前では絶対にいってはいけない恐ろしい言葉」が存在するのである。

以下155に続く

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2007年7月 4日 (水)

第三部江湖闘魂完結編153「太田牛一伝」

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第三部江湖闘魂完結編153「太田牛一伝」

この琵琶湖伝中には、「もっとも簡単な言葉で誰でも言えるが、ある者の前では絶対にいってはいけない恐ろしい言葉」がある。

賢明なる読者の皆様にはもうお分かりであろう。

それは、孫六に対する「牛」である。

この「もっとも簡単な言葉で誰でも言えるが、ある者の前では絶対にいってはいけない恐ろしい言葉」を名に持つ男、太田牛一とはいかなる者であるのか、簡略に述べる。

太田牛一(おおた ぎゅういち、うしかずともいう)は、一五二七年に尾張の国に生まれ、一六一三年に大阪で亡くなった、当時としてはかなりの長寿を全うした人物である。

最初は柴田勝家の家臣であったが、一五六八年よりその武術と書記官的才能をかわれ、織田信長直属の家臣となる。

太田牛一は、若きより弓術の名手として知られていたが、信長の近江進出に伴い一五七五年ごろより、琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有する大津の天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)の総本山である三井寺(みいでら 正式名称は長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ))において、伝教大師最澄様直伝の独鈷比叡剣の流れを汲む三井園城拳の習得に励み、己の武術にさらなる磨きをかけた。

一五八二年の本能寺の変のときは、近江大津堅田近辺の代官を勤めていた。

信長亡き後一時期仏門に入ったが、九〇年豊臣秀吉にその武術の才を請われて出仕、秀吉の警護責任者的役割を果たす。

すでに齢(よわい)六十三であったが、その肉体は壮健にして二十代の若者にみえたという。

同年に行われた「美里拳論会(琵琶湖決戦編八三、八四参照)」には、老年の身ながら出場、準決勝まで勝ち進み、古今天真拳(古今伝授(こきんでんじゅ)継承者のみが学べる空海ゆかりの武術)を使う細川幽斎(一五三四年に生まれ一六一〇年に亡くなる。足利義昭の側近であったが、後に織田信長に仕え、信長死後は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、時代の変転を見事に見極め生きていく。そういう戦国武将の一面とともに当代一流の文化人でもあり、師から弟子へ口伝される秘事としての古今和歌集の解釈の要諦(古今伝授)を当時唯一知る人物であった。九〇年当時は丹後宮津城城主)と対決。

太田牛一は、空中書 (書の達人でもあった空海様や最澄様の筆法から生まれ、筆に気を込め空中に描いた文字で敵を攻撃したり、空中に碁盤の目を描き空中碁で相手と頭脳勝負をしたりするものである。両者の対決は数時間に及び、美里拳論会の歴史に残る名勝負となったが、最終的には空中碁で幽斎が、中押し勝ちをして勝敗が決した) 対決に惜敗する。

そして一五九八年の秀吉の死後、その消息が不明となる。

一六〇三年突如大阪天満に姿を現し、晩年の十年をそこで過ごす。

その間に織田信長の一生を描いた「信長公記(「しんちょうこうき」と読む。「のぶながこうき」でも「しんちゃんうきうき」でもないから注意したい)」を書き残す。

「信長公記」は現在においても、信長関係の資料としては一級のものとみなされている。

以上が巷間伝えられる太田牛一についての紹介に、勝手な解釈も付け加えたいい加減なものであるが、当然の如く時の権力に恐れられた「信長の遺書」は歴史の闇に葬り去られ、資料偏重の現在の歴史学会においては誰もその存在を認めていない。

また秀吉死後からの五年間の太田牛一の足跡も分かっていない。

この歴史の闇に光を当て、愛と正義と真実を追求することを趣旨とする「琵琶湖伝」では、正史に語られぬ部分にあえてメスをいれるわけである。

太田牛一は、何処に・・・・・・。

では話を彦根有田屋の板間に戻すことにする。

「信長の遺書の行方を探ってもらいたい」

といわれたお香をはじめ正英、良之介、十蔵は、「信長の遺書」という名辞に首をかしげる。

この場の雰囲気を察した孫六は、「信長の遺書」についての説明をした(琵琶湖伝152参照)

当然だが孫六は、「おおたぎゅういち」と読み「おおたうしかず」とは読まなかった。

もし「うし」と読んだら。

この世の中には、「もっとも簡単な言葉で誰でも言えるが、ある者の前では絶対にいってはいけない恐ろしい言葉」があるのだ。

孫六が「うしかず」と読まなかったのは、幸いであった。

以下154に続く

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