琵琶湖伝160「泣いてる良之介」
琵琶湖伝160「泣いてる良之介」
日吉神社で惨劇が起こっていたころ、正英とお香と良之介は大津まで到着していた。お香はそのまま長岡(現在の京都府長岡京市)の高明寺を目指し、まず京都に入るため山科への道をとる。お香は背中に結んでいた菅笠と竹杖をほどいて、笠をかぶり杖を持ち、
「それでは、しばらくのお別れを」
としおらしく言いながら、二人と別れた。
正英と良之介は、坂本に向かった。唐崎をすぎ、坂本に入ると至る所で紅葉の視界であった。日吉大社は、比叡山系の最高峰・大比叡峰の東方に位置する八王子山(牛尾山)を含む山麓にあり、二人は八王子山にむかって歩いていく。
吸い込むと胸が痛いほど、空気が冷たかった。
「見事な紅葉が続きますね」
良之介が感嘆の声を挙げる。
「うん」
正英も満足そうに頷く。
しかし、鳥の声もなく、異様な静寂が神社の参道を支配していた。二人は、一定のリズムに乗って参道を歩き続けた。その二人の傍らを人々が次々に追い越していく。速足で皆々が大鳥居のほうにいっている。正英は何となく不安な気持ちに駆られ、自然に足取りが速くなっていった。良之介も正英に合わせ、急ぎ足になっていく。
「大鳥居の方で何かあったのでしょうか」
良之介が、不安そうな顔で言った。
正英は、無言であった。何かあったのに違いない。大鳥居の前は黒山の人だかりだった。
背の高い良之介が人ごみを掻き分け、正英がそのあとに続いた。先頭に出たとき良之介は突ったったまま、前方の地面に眼をやっていた。
正英も慌てて、前方を覗き込んだ。
「茂左衛門様……」
良之介が低い声で叫んだ。
茂左衛門と呼ばれた男は、俯伏せに倒れていた。背中に刺し傷があった。流れた血が乾いた地面に、黒いシミを描いていた。
しかし、まだ死んではいない。かすかな動きがあった。
(京に入る前から修羅の道が始まっていたとは)
正英は暗澹たる気持ちになったが、眼の前の同士を見捨てて行くのは忍びないが、ここは表立って騒がず良之介と京に行くしかないと腹を決めた。しかし、若い良之介の思いは正英とは違っていた。
良之介はお耳役の立場をわすれ、介抱にあたる数名のこの地域を管轄する膳所藩の役人を無視して走りよったのだ。
「死して屍(しかばね)拾う者なし」という忍びの原則を忘れたのである。
正英は良之介の腕を押さえて止めようとしたが、間に合わなかった。
仕方なく正英も続いた。
「茂左衛門様、しっかりしなされ」
良之介が、茂左衛門を抱き起こした。
茂左衛門の顔に、血の気はなかった。良之介がさらに声をかけると、茂左衛門は、目を開いた。
もう何も見えない目が、まったく動かずにいた。
「突然、体がしびれてきて、他の四人はその場に倒れ、動かなくなったが、わしは、なんとか起き上がりここまで逃げてきたのだが。相手は二人組だった。一人は坊主頭」
茂左衛門の唇が、重く動いたが、そこまでだった。茂左衛門の上体が、良之介の膝の上から落ちた。絶命したのである。
目を見開いたままの茂左衛門のまぶたを良之介は合わせてやってから、遺体を地上にゆっくりと置いた。
「茂左衛門様は、私がお耳役を始めたときに、お耳役のいろはを教えてくれた方です」
良之介はつぶやくように言う。正英は、茂左衛門の傍らに見事に紅葉している木の葉が、数枚落ちているのが気になり、拾ってみた。
その木の葉についた匂いは、明らかにあの草津の街道でめぐりあった、高西暗報のしびれ薬の匂いであった。
「正英様、体がしびれたとは、まさか高西・・・・・・」
良之介が眼に涙を溜めながら問いかける。
「すまん。お前の言うとおり草津で殺すべきであった。あやつは自分の力を誇示するため、証拠を置いていった」
正英は、しびれ薬が染みている木の葉を良之介に見せた。
以下161に続く


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