琵琶湖伝161「藤堂高虎」
琵琶湖伝161「藤堂高虎」
いつのまにか正英と良之介のまわりは、膳所藩の役人とその手伝いのものたちに囲まれていた。
その中の一人が、
「この者の知り合いであろう。他の四名の者のこともある。我らと同道して事情を教えてもらえぬか。時間はかけぬ」
といった。
その役人の後方から戸板に乗せられた四名の遺体がこちらに向かってくるのが、正英には、見えた。
(ここまでのことをやってのけた奴らだ。そのまま京に行き金地院様を襲うかもしれない)
正英は焦燥感に駆られた。
一刻も速く京に行かねばならぬ。
良之介を見た。
地面にひざまずき、呆然としている。
良之介を立たせてから、
「拙者共は、急ぎの用がある者。どうか何も言わず、この場を立ち去らせてもらえまいか」
と役人に頼んだ。
あくまで正英たちの行動は隠密行動であり、膳所藩は本多家と同じ譜代とはいえ、何を目的に行動しているかなど言えるはずがないのだ。
第一、本多家のものだといっても、それを証明するものを持っていない。
一日あれば本多家のものとすぐにわかろうが、そんな余裕を正英は持てなかった。
役人が断れば、周りの役人たちを投げ飛ばして、逃げるしかないと腹を決めていた。
当然だが役人たちが、見過ごせるはずもなく、正英の頼みはすげなく断られる。
「それもそうでござる」
正英はにこやかな笑いを振りまきながら、逃亡のための行動を起こそうとした。
其の時、
「膳所藩の方々、お待ちくだされ」
と見物人たちを掻き分けながら、二メートルはあろうかという四十五、六の恰幅の良い男と、百七十センチくらいの三十二、三の痩せているが精悍な顔つきの男が進み出てきた。
痩せた方の男が、声をかけたのである。
そのままその男は膳所藩の役人たちに何事かささやき、役人たちも納得したのか、正英と良之介にこの場から立ち去るように告げた。
大男の方が、
「良かったのう」
とうれしそうに言い、先導役となり三人が後に続いた。
参道が終わるくらいのところに馬がとめられていた。
そこまでくると、大男は立ち止まった。
「失礼だが、我らの難儀をお助けくださり、挨拶を申したいのだが、どちらの方々か、皆目見当がつきませぬ。どちらさまかお教えくださりませぬか」
正英は丁重に言った。
良之介もペコリと頭を下げた。
もう涙も乾いている。
痩せた男が、
「拙者は藤堂家家臣、梶川小兵衛。こちらの方は、伊予今治二十万石藩主藤堂高虎様でございます」
と紹介をし、正英と良之介は地面に頭をつくばかりに平身低頭で応じた。
藤堂高虎は、この年四十六歳。近江に生まれ、二十歳で豊臣秀吉の弟秀長に仕え、秀吉の天下取りとともに出世し、大和を中心に百万石近い大領を支配した秀長の家老として活躍。
秀長が死去すると、その養子である秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征し、軍功を挙げた。
しかし一五九五年、秀保が早世すると高野山に上って出家する。
だが、その将才を惜しんだ秀吉が召還したため還俗し伊予宇和島七万石の大名になる。
秀吉が死去すると、高虎は次の天下人は徳川家康であると判断、日本の平和のために家康の天下取りに大いに貢献していく。
関ヶ原戦後、その行動は大いに評価され、家康から伊予今治二十万石に加増移封され、現在に至っている。
その忠勝をしのぐ大名である藤堂高虎が、なぜ今この坂本の日吉神社にいるのか、そしてなぜ正英と良之介に助け舟をだしたのか。
その理由は次回のことになる。
以下162に続く


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