琵琶湖伝56「真田信幸」
9月20日家康は、大津城に入る。
同日、秀忠軍が草津に到着。その夜、秀忠は榊原康政、本多正信を伴い、大津城内で家康と対面する。家康には、本多忠勝や井伊直政が近侍している。
秀忠遅参について本多正信が、中仙道は、山道多く天候も不順で四万近い大軍が動くにはかなりの難所であったこと、さらに信州上田で真田昌幸、幸村父子の妨害にもあったことなどを述べ家康からの許しを請うた。といってもこれは芝居であり、遅参は最初からの予定であった。家康は己の主力を使わずして豊臣の武将中心で、歴史の扉を開いて見せたのだ。
翌21日には石田三成が伊吹山山中で捕縛される。その後につては司馬遼太郎氏の「街道をゆく24近江散歩」から引用させてもらうと、「三成は……10月1日、京の六条河原で刑殺された。死に至るまでのあいだ、三成の身柄を直政にあずけた」とある。井伊直政は、戦後の所領分配で、三成の旧領を引き継ぎ、それまでの12万石から18万石に加増された。
25日大阪城の毛利輝元が退去し、26日に大津を立った家康は、27日に大阪城に入り、秀頼と淀の方に戦勝報告をし、以後10月15日まで没収した西軍諸将の領地をどう徳川とその同盟者たちに分配していくかに心を砕くことになる。
9月26日の夜、本多忠勝は、雑賀孫六を呼び、娘婿の真田信幸に「急ぎ、大阪に来るべし。一刻を争うと思え」と伝える急使役を頼み、上州沼田に出発させた。家康、秀忠父子の言に信州の真田許さずの念が見られたからである。
真田信幸は、信州上田城城主、真田昌幸の嫡男であり、次男は十数年後大阪冬、夏の陣において名を馳せる幸村である。徳川と真田は俗にいう相性の悪い者たちである。なかなかうまく付き合えないのだ。
普通なら小藩の真田が徳川に逆らわねばよいのだが、真田昌幸はそうはいかぬ御仁であった。1585年信州を勢力下に収めようとする徳川家康は、昌幸に上田城開城を要求するが、昌幸はこれを拒絶する。
怒った家康は1万の兵で2000ほどの兵力の真田を攻める。第一次上田合戦といわれるもので(二次は秀忠軍との今回の戦い)、20歳の信幸は7百名の兵を率いて徳川軍に正面から突撃を敢行、さらに一転、退却しそれを追う徳川軍を、父昌幸が罠を仕掛けて待ち受ける上田城内に誘い込むことに成功する。
誘い込まれた徳川軍は昌幸に完膚なきまでに叩かれ、撤退を余儀なくされる。その後昌幸は秀吉に臣従し、秀吉から信州を上田も含めて家康の支配下とするという命に服し、86年昌幸は家康と和睦、徳川氏の家臣となる。
87年正月信幸は昌幸とともに駿府城の家康に年賀の挨拶に行った。挨拶を済ませ駿府城大手門を出たところで、真田父子は、年賀の挨拶に向かう本多忠勝と会った。
忠勝は、15歳になる娘の小松姫と信州の戸沢白雲斎の下から帰らせて護衛役にしたばかり(7話参照)の井原正英を伴っていた。忠勝は上田合戦に参加せず、真田父子とは初対面だったが、当然信州に詳しい正英から、むこうから来るのは、真田殿と聞かされ、寡兵で家康軍に勝利した真田かと武将らしい興味を見せ、昌幸に声を掛けた。
昌幸も相手が忠勝と知って、家康様の次に会いたかったのは、おぬしだと、語りかけ、意気投合、ぜひわしの屋敷で酒を飲もうと忠勝が言ったとき、忠勝の眼に映ったのは、昌幸の背後で信幸が、小松姫の二起脚(にききゃく)をもろに受け悶絶し倒れていく姿であった。
以下57に続く


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