2009年11月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

「歴史ネットワ-ク」

  • 「歴史ネットワ-ク」
    歴史ネットワ-ク」( 略して「@Hinet」 )は、現在、WEB上で行われている色々な歴史系コンテンツを持ったサイトを総合的に集約し、皆様にご紹介して楽しんで戴こうとするホ-ムペ-ジです。  

しゃべるウサギ

灯~Akari【和洋中歴史風&歴史創作系イラスト/小説検索】

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

2006年12月 2日 (土)

琵琶湖伝56「真田信幸」

920日家康は、大津城に入る。
同日、秀忠軍が草津に到着。その夜、秀忠は榊原康政、本多正信を伴い、大津城内で家康と対面する。家康には、本多忠勝や井伊直政が近侍している。
秀忠遅参について本多正信が、中仙道は、山道多く天候も不順で四万近い大軍が動くにはかなりの難所であったこと、さらに信州上田で真田昌幸、幸村父子の妨害にもあったことなどを述べ家康からの許しを請うた。といってもこれは芝居であり、遅参は最初からの予定であった。家康は己の主力を使わずして豊臣の武将中心で、歴史の扉を開いて見せたのだ。
21日には石田三成が伊吹山山中で捕縛される。その後につては司馬遼太郎氏の「街道をゆく24近江散歩」から引用させてもらうと、「三成は……10月1日、京の六条河原で刑殺された。死に至るまでのあいだ、三成の身柄を直政にあずけた」とある。井伊直政は、戦後の所領分配で、三成の旧領を引き継ぎ、それまでの12万石から18万石に加増された。
25日大阪城の毛利輝元が退去し、26日に大津を立った家康は、27日に大阪城に入り、秀頼と淀の方に戦勝報告をし、以後10月15日まで没収した西軍諸将の領地をどう徳川とその同盟者たちに分配していくかに心を砕くことになる。
9月26日の夜、本多忠勝は、雑賀孫六を呼び、娘婿の真田信幸に「急ぎ、大阪に来るべし。一刻を争うと思え」と伝える急使役を頼み、上州沼田に出発させた。家康、秀忠父子の言に信州の真田許さずの念が見られたからである。
真田信幸は、信州上田城城主、真田昌幸の嫡男であり、次男は十数年後大阪冬、夏の陣において名を馳せる幸村である。徳川と真田は俗にいう相性の悪い者たちである。なかなかうまく付き合えないのだ。
普通なら小藩の真田が徳川に逆らわねばよいのだが、真田昌幸はそうはいかぬ御仁であった。
1585年信州を勢力下に収めようとする徳川家康は、昌幸に上田城開城を要求するが、昌幸はこれを拒絶する。
怒った家康は1万の兵で
2000ほどの兵力の真田を攻める。第一次上田合戦といわれるもので(二次は秀忠軍との今回の戦い)20歳の信幸は7百名の兵を率いて徳川軍に正面から突撃を敢行、さらに一転、退却しそれを追う徳川軍を、父昌幸が罠を仕掛けて待ち受ける上田城内に誘い込むことに成功する。
誘い込まれた徳川軍は昌幸に完膚なきまでに叩かれ、撤退を余儀なくされる。その後昌幸は秀吉
に臣従し、秀吉から信州を上田も含めて家康の支配下とするという命に服し、86年昌幸は家康と和睦、徳川氏の家臣となる。
87年正月信幸は昌幸とともに駿府城の家康に年賀の挨拶に行った。挨拶を済ませ駿府城大手門を出たところで、真田父子は、年賀の挨拶に向かう本多忠勝と会った。
忠勝は、
15歳になる娘の小松姫と信州の戸沢白雲斎の下から帰らせて護衛役にしたばかり(7話参照)の井原正英を伴っていた。忠勝は上田合戦に参加せず、真田父子とは初対面だったが、当然信州に詳しい正英から、むこうから来るのは、真田殿と聞かされ、寡兵で家康軍に勝利した真田かと武将らしい興味を見せ、昌幸に声を掛けた。
昌幸も相手が忠勝と知って、家康様の次に会いたかったのは、おぬしだと、語りかけ、意気投合、ぜひわしの屋敷で酒を飲もうと忠勝が言ったとき、忠勝の眼に映ったのは、昌幸の背後で信幸が、小松姫の二起脚(にききゃく)をもろに受け悶絶し倒れていく姿であった。
以下57に続く

2006年10月 8日 (日)

琵琶湖伝40「戦闘の論理」

蒋介石との戦いを制し中華人民共和国を成立させた毛沢東は、政治的資質より軍事的資質に秀でていた。その乱あってこその才能は、後に文化大革命で復活し、存分に発揮されるが、彼の戦術論を自ら言った言葉に「一を以って十に当たり、十を以って一に当たる」というものがある。
寡兵で大兵力と戦うが、実際の戦闘では、敵の弱い部分か最重要部分に、全兵力を集中させるという意味である。島津の戦(いくさ)は、ほとんどが寡兵で多兵を制したもので、それも毛沢東より400年前であり、島津からみれば、毛沢東の言葉など赤子同然となろうか。
この関ケ原の退却戦の島津の戦法捨て奸(すてがまり、琵琶湖伝32参照)は、己(おのれ)を犠牲に盾となり、敵を足止めし、時を稼ぐことで、主君を逃すものだが、むやみに己の生命を捨てるわけではなく、やはり盾になる者たちは追ってくる敵の「最重要部分」を見極め、「足止め」させるのである。
65歳の老将島津義弘を守っての退却はどうしても全速力で駆け抜けるっといった形にはなりにくく、追う松平忠吉との距離が、次第に縮まってゆく。「しんがり」役を務める長寿院 盛淳は、その差を広げるために、己の部隊を停止させた。
30名いた郎党も22名になっていたが、鉄砲を細引きで背中に結うてきた者が10名いた。その者たち7名を街道に座らせ、3名をその後ろに立たせ、さらに長寿院たちが背後に控えた。忠吉の騎馬隊の先頭の者たちが、10メートル位まで近づいた時、長寿院は座した鉄砲衆に射撃を命じ、忠吉の騎馬武者たちは当然のように銃弾を受け、落馬していく。
「殿を守れ。」後続の騎馬武者たちが声を挙げた。そして一人の騎馬武者の周りを何人もの騎馬武者が囲みかけようとした瞬間、15メートルほど先の、その騎馬武者に向かい、立位の3名の種子島が火を吹いた。
2発は囲もうとした者たちに当たったが、1発はその騎馬武者の右肩を貫いたのである。肩を撃たれ落馬しそうになる武者を、周囲が支える。同時に馬上の長寿院は「全員、突撃」といいながら、騎馬隊に突進してゆく。他の者も主(あるじ)に負けじと走り出した。
「殿を下がらせよ」っという声と「島津にむかえ」という声が混ざる中、数十の騎馬が長寿院たちを迎撃する。大混戦が数分続いた後、「引けー、引けー」と忠吉側の退却の命令が聞こえ忠吉の騎馬隊が後戻りをしていった。
長寿院自体、何が起こったのか判断できず、一瞬、立ちすくんだが、いずれにせよ、敵が勝手に逃げたのに、この場にいる意味もなく、義弘の後を追うことにした。長寿院に従う者は12名に減っていた。
何故、忠吉の部隊が兵を引いたのか。長寿院には永遠にわからぬままになるのだが、寡兵で敵の進撃を食い止めるには、「一を以って十に当たり、十を以って一に当たる」には、現実に接触する最前線の戦闘指揮官(現代戦なら少尉クラス)を狙うことで、戦闘機能を低下もしくは停止させるしかない。
長寿院はその原則に従い、勇猛な戦闘指揮官なら先頭を駆けるであろうし、最悪でも二番手にいると考え、座した7名を一の矢、立位の3名を二の矢としたのだ。
二の矢を立たせたのは二番手の位置に戦闘指揮官がいる場合、彼を守ろうと周囲が絶対に動く、その動きの中心(戦闘指揮官)を撃ち抜くには、動きの見やすい立位が自然だからである。ただ長寿院も戦闘指揮官の一人や二人が負傷したくらいで、戦闘行為が終了するなどとは思っていない。長寿院の戦闘目的は「時を稼ぐ」だけである。
では何故、忠吉隊は、戦闘行為を終了する事態に陥ったのか。それは、肩を撃ち抜かれた者が、松平忠吉本人だったからである。家康様の息子を負傷させた忠吉の家臣たちの衝撃は、島津追撃など些事と考えるに充分なものだった。松平忠吉が男の誇りを賭け、騎馬隊を率いて島津を追撃したことが、まさに裏目に出たのだ。

サイドバー最上部はネット小説 の投票です。気楽に投票していただけると励みになります

2006年9月24日 (日)

琵琶湖伝24「島津義士伝1」

「殿、わしら、ボケだしたかも知れませんな。豊久殿の言うとおり。殿は、やはり生きるべきお方じゃ。」
長寿院の言葉を聞きながら、義弘はうつむく。
義弘の本心は、己(おのれ)が先頭に立って家康を攻めることで、敵の攻撃を己に集中させ、そのスキに一人でも多くの島津兵がこの関ケ原から逃れてくれれば良いというものであった。
なぜ当主たる己を犠牲
にすべきなのか。
それは、この合戦場に集いし者たちが、ただの
島津兵ではなかったからである。
 (以下25「島津義士伝2」に続く)

2006年9月14日 (木)

琵琶湖伝8 井伊直政

井伊直政は遠江国井伊谷に名門の地方豪族の子として生まれた。父が二歳で死に家が没落十五歳まで苦労辛酸をなめる。1575年すでに三河遠江の二国を領有し居城を三河岡崎から浜松に移していた家康は、井伊家の没落を憂い、直政を家臣に加える。
以後の武功はすさまじく、その功で1582年には武田家滅亡後不遇をかこっていた旧武田家
家臣団を家康が取り立て、直政に付け、さらに家康直属の武将であった木俣守勝も与えた。その際、直政は武田家の有力武将達が用いた赤備えを採用し、兜、甲冑、具足に旗まで全てを赤色に統一し、井伊の赤備えとか赤鬼と言われることになる。また何度も書いたが直政の娘は家康の四男松平忠吉に嫁いでおり、徳川家との縁戚関係も強い。
家康に出会うまでの直政が厳冬としたら、それ以後は陽春である。ただし厳冬に戻らぬためにひたすら家康に功名を示しその存在意義を高らしめるのに努め、ために己にも家臣にも厳しく怜悧に物事を思量する人間でもあった。
その直政の陣に雑賀孫六は忠勝の口上を伝えに来たのである。口上を聞いた直政は「しかと承った」とだけ言い、孫六を帰らせ、物見の甲賀衆に問うと、確かに本多勢が出陣したという。忠勝の申し入れは直政には計算外であった。常にあらゆる場面で家康の評価を得ることしか考えない直政にとって今日は 「先駆けの功」を松平忠吉と果たしたことで家康の評価は得たと考えていた。あとは松平忠吉のお守りで充分なはずであった。それ以上、家康のためにする必要もないのである。
しかし忠勝の口上を聞けば別である。
だらだらと島津と遊んでいたと忠勝なら言いかねない。それは己の致命傷になる。忠勝の来る前に攻めるべきなのだ…今すぐ。
直政は赤備えに島津への総攻撃を命じていた