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「歴史ネットワ-ク」

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しゃべるウサギ

灯~Akari【和洋中歴史風&歴史創作系イラスト/小説検索】

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2007年1月 2日 (火)

近江(滋賀)の旅

近江(滋賀)の旅の写真

マイフォト サイドバーの一番下に

2006年12月31日 (日)

琵琶湖伝66「関ケ原論功行賞」

1600年10月15日、家康は関ケ原の論功行賞を行った。
石田三成に加担した西軍の大名たちから没収した領地は、約650万石。
これの2割を徳川家の直轄領に入れ(これにより家康の領地は400万石を越えた。当時の全国の総石高は1800万石といわれている)、残り8割を徳川一門や家臣団、そして東軍の大名たちに配分した。
徳川以外の東軍大名(外様大名)の主な加増を見てみると、
 細川忠興は
丹後宮津18万石から豊前小倉40万石へ
 田中吉政は
三河岡崎10万石から筑後柳川325千石へ、
 黒田長政は豊前中津
18万石から筑前名島53万石へ、
 藤堂高虎は伊予板島
8万石から同今治20万石へ、
 山内一豊は
遠江掛川7万石を土佐浦戸24万石へ、
 福島正則は
尾張清洲20万石を安芸備後広島498000石へ、
 池田輝政は三河吉田
152000石を
播磨姫路52万石へ、
などである。
徳川一門においては、あの松平忠吉に尾張一国50万石が与えられた。
これら外様や一門の大幅加増に比して、家臣たち(譜代大名)への加増はわずかなものであった。
一番最高は、井伊直政であり、
上野国箕輪(群馬県高崎市12万石から近江佐和山18万石(滋賀県彦根市)に加増された。
われらが本多忠勝は、伊勢
桑名10万石(三重県桑名市)に移され、それまでの上総大多喜領は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられた。
井伊直政で
6万石、忠勝においては次男の領地と合わせると15万石で5万石の加増になるという手品のような論功行賞であった。
家康のこの論功行賞の特徴は、徳川家とその家臣団を東海道と中仙道に集中的に配置したことである。
京都から江戸の間を徳川一色に染め上げ、西国への最前線に徳川武闘派の代表格である井伊直政、本多忠勝、そして松平忠吉を置いたわけである。
1601年の4月に本多忠勝は桑名に入城する。
桑名は東海道53次のひとつである。
東海道は
江戸を結ぶ道であり、江戸から出立するなら、江戸日本橋を起点として太平洋岸を進み宮(尾張熱田 現在の愛知県名古屋市田区)に至る。そこからは徒歩ではなく、船で桑名港(桑名七里の渡し)に行く。
東海道53次で唯一船を交通手段とするのが、桑名であった。
つまり桑名は東西交通を分断できる、東海道の要衝なのである。
当時のことを考えたら、桑名から伊勢神宮を目指す人も多かったであろう。
東海道の続きをいえば、現在のJRの東海道線などのイメージからすると、岐阜県を通りそうだが、実際の東海道は、桑名から四日市、亀山と三重県を抜け鈴鹿峠を越え、近江に入り草津、大津、そして終点の京都
三条大橋に至る。
東海道53次とは、
日本橋江戸)から三条大橋京都)に至る宿駅53箇所のことで地名的には、日本橋三条大をいれれば55箇所となる。
安藤広重の有名な浮世絵「東海道53次」は全て揃えると何枚になるか。
以下67に続く

2006年12月24日 (日)

紅葉の写真

京都の勝持寺(花の寺)と善峰寺(よしみねでら)の紅葉の写真です。サイドバーの一番下マイフォトに置きました。よかったらみてください。

2006年9月30日 (土)

夕陽と東尋坊

北陸屈指の景勝地 東尋坊と夕陽
日本海の荒波をうけた1kmに及ぶ柱状の断崖は、迫力満点。中でも東尋坊大池は高さ50mもあり、圧巻。
サイト下マイフォトに写真8枚置きました。

2006年9月13日 (水)

琵琶湖伝6

自身が陣に戻った忠勝が「集合」と声を出すや、一瞬に隊列が整う。縦に騎馬、足軽、鉄砲の順である。
「雑賀孫六は」「おう」「島津、石田の状況をいえ」「現在、島津五百そのうち鉄砲三百騎馬二百、石田二千五百鉄砲六百、さすがに朝からの激戦、人数減るもそれぞれの士気は旺盛」
雑賀孫六は日本一の鉄砲傭兵集団といわれた紀州雑賀党頭領、雑賀孫市の実弟である。鉄砲、剣術、拳法の技に優れ、1585年3月の秀吉の紀州征伐で雑賀党が壊滅した後、諸国放浪中の1590年、同年家康の関東入国に伴い大多喜藩、現在の千葉県大多喜市、に十万石で封じられた本多忠勝と出会い、その家臣となる。
忠勝はお耳役という情報組織を創り、その頭に
孫六をあてた。お耳役はわずか10名の小組織だが本多家中、旧雑賀衆、大多喜の民の中から孫六が自ら選んだ拳法の達人集団でもある。
騎乗のままの孫六の報告を聞いた忠勝は命令を出す。
「孫六、急ぎ直政の陣に行き、直政様と忠吉様の助太刀に主人忠勝、これより島津勢に突撃いたす、と告げよ。その後、おぬしは笹尾山に向かう我が部隊に参加せよ。」
「笹尾山の方角は石田三成では」と孫六が問うと、
「わからぬか。」
忠勝が口元をかすかに緩ませた。

2006年9月12日 (火)

琵琶湖伝5

正午を過ぎるとこの合戦の帰趨は決する。両軍双方八万前後が集まった 関ケ原の舞台も 小早川秀秋一万五千の寝返りは、そのバランスオブパワーを崩すに充分なものであった。午後一時を過ぎても互角に戦う西軍は家康本陣正面4キロの天満山付近に布陣する島津義弘とその島津隊と北国街道を挟む笹尾山に、家康本陣から見れば斜め右前方5キロに、布陣する石田三成の部隊のみであった。兵員は島津一千、石田六千。
「忠勝、たった一千の島津が何でまだ崩されていないのだ。宇喜多も小西も退却しておるのに。」
「島津を攻めておるのは、直政と忠吉様ですな。六千はおるはず。娘婿の 忠吉様にお怪我でもあればと己の将来も考えて、直政のやつ戦の振りでも して時間つぶしをしておりますな。戦争ごっこで暇つぶし。」
「お前は直政が本当に嫌いだな。」
「もう大嫌い。わしより、頭が良くて顔が良い。政治力もあるし忠誠心 をひけらかす芝居もうまい。演技力抜群。さらに、あやつは三河者ではない。遠江の者。それにあやつの家臣の大半は武田家滅亡後、大殿が召し抱えた 旧武田家家臣団。うさんくさい臭いプンプン。三河者といえば木俣守勝だが あやつも、わしより、頭が良くて顔が良い。」
「忠勝。お前はわんぱく駄々っ子おやじか。確かにわしは三河に生まれ お前たち家臣に支えられここまで来た。三河武士はわしの宝だ。しかしな 三河だけが日本ではない。他国者でも平等に登用せねばならんのだ。お前も 他国者を家臣にしているであろう。直政の場合、数が多すぎるだけだ。」
「アーウー、アー、とにかく、わしより、頭が良くて顔が良いやつは嫌いなんだよぅ。」
傍らで聞いていた井原正英は忠勝のいつものわんぱく駄々っ子おやじぶりに、 おかしくて吹き出しそうになるのをこらえていた。その正英に忠勝が正英の背後に立て掛けてある蜻蛉切(とんぼきり)を取ってくれと言った。蜻蛉切は御手杵(おてぎね)、日本号(にほんごう)とともに天下三名槍(てんかさんめいそう)といわれた2メートル はあろうかという長槍である。普段の忠勝は1メートルほどの槍を寝るまで 離さない人間だが合戦場ではやはり蜻蛉切なのだ。正英から手渡された蜻蛉切を忠勝は右手に持つと頭上で一旋し、家康に声をかけた。
「直政とあんたの息子じゃ、らちが明かん。島津に手間取り三成の首に あやつらは手が届かんがな。黒田長政細川忠興加藤嘉明など今、三成 を攻めているのは他家ばかり。三成退治に行って参る。」
そう言うと踵を返した忠勝を家康が制止する。
「待て、おぬしの兵はわずか五百ぞ。死ぬぞ。」
「騎馬三百、鉄砲百五十、足軽五十だ。鉄砲隊は残す。」
「行くな、危険すぎる。」
「日本のため平和のため民のため徳川のため、家康様のために。 し、ね、る。」と片眼をつぶってお茶目に言い、「それと。」と付け加えた。
「それと何だ。」家康が問う。
本多忠勝とわしが鍛えた兵をなめるなよ、おめぇ。」
言うが陣を去り、井原正英も家康に一礼し後を追う。一人残された家康は
「確かにな。忠勝はじめ本多家の奴って、人間離れしてるの多いよね」
と納得気につぶやくのであった