琵琶湖伝55「征夷大将軍と源氏長者」
征夷大将軍にならぬかという朝廷の依頼のどこに罠の匂いがするのか。家康も征夷大将軍という役職は武家の棟梁を示すもので、喉から手が出るほどにほしいもので、それをわざわざ向こうからなってくれと、頼みにきたわけで、これほどの好機は、一見ないように見える。
しかし、関ケ原での家康は豊臣家の大老であり、あくまで幼き豊臣秀頼を補佐しているわけで、補佐役が勝手に武家の棟梁を宣言したなら、豊臣家からみれば逆賊であり、家康に反対する者たちに反撃の大義名分を与えかねない。第一、戦勝報告のため大阪城で秀頼に会わねばならないのである。征夷大将軍の依頼を受諾できるはずがないのだ。
受諾できないことを、わざわざ朝廷側はいいに来たわけで、受諾すれば家康は窮地に陥り、拒否すれば征夷大将軍への道は当分閉ざされることになる。どちらにせよ、家康に不利な状況を作りだす仕掛けが、眼前に張られたのであり、まさに「罠」であった。
そこで豊臣家の人間として当然のことをしたまで、征夷大将軍など分不相応と丁重に断り、朝廷の二人の使者を帰らせたのである。
「帝(みかど)も意地の悪いことをされますな」忠勝が家康にいう。
「いや帝が考えたのか、それとも誰かが帝に上奏して帝はたんに許可をしたのかは、わからん。わしは後者と思う。あまりに動きが速すぎる。関ケ原が終わって三日後だぞ。征夷大将軍になるための、朝廷工作など何もやっておらんのに、まして関白家としての豊臣があるのに、帝が、家康に征夷大将軍になってもらおうなどと、思うはずがない。日本の平和のためには、わしは将来、幕府を開きたいとは思っている。しかし、秀吉があっという間に、大恩ある織田家をつぶしたようなことはわしはしたくない。豊臣の面子も保たせ、その上で徳川が日本を平和にしていく。そのためには順序が大切だ。」
「その順序を崩しにきたのが、さっきの二人ですな」
「そういうことだ。朝廷の中に反徳川の者たちがいるのだろう。ただ勧修寺光豊は武家伝奏職(武家についてのことを天皇や上皇へ取次ぎする公卿の役職)勧修寺晴豊の子だ。晴豊は秀吉の朝鮮出兵以来、秀吉に愛想をつかし、わしの朝廷工作の代理人となってくれている人間。その息子をよこすことで、わしと晴豊との関係に亀裂を生じさせようともしたのであろう。」
「晴豊様の権威を無視して使者を出させたなら、かなり位の高い公家の中に反徳川の首魁がいそうですな」
「うん、晴豊は正二位でわしと同じ官位だ。その上はもう従一位。菊亭晴季(きくてい はるすえ)か九条兼孝しかおらん。いずれどちらかか、両方かわかるであろうが、正使の烏丸中将成幹など聞いたことのない者だ。」
「殿、これから朝廷との戦いも激しくなることが、今日はっきりわかりましたが、征夷大将軍にしばらくなれないのは残念でござるな」
忠勝は悔しそうにいったが、家康はその言い方に笑った。
「忠勝よく聞けよ。武家が日本を支配するために幕府を開くのは、源頼朝公以来の伝統であり、征夷大将軍に任命されねば幕府は開けん。だから自ら拒否したことは確かに残念だ。しかし征夷大将軍になっても官位は上がらぬ。冷静に考えれば、まずは従一位になることだ。豊臣秀頼が将来成人して関白を継げば従一位になることになる。官位で負けぬには、征夷大将軍より従一位だ。そのあとで征夷大将軍と源氏長者になれば、万全だな。」
「源氏長者とは」
忠勝が問うた。
「源氏長者とは、源氏一門の長であり、従一位の源氏の姓を名乗る者に対し天皇が任命する。室町幕府の足利義満が征夷大将軍と源氏長者を初めて兼ね、日本国王を名乗ることを許されている。当然、関白を超える権威である。武家と公家両方を納得させる権威を持ち、その上に充分な軍事力があれば、この戦乱の世に終止符が打て、千年の平和さえ夢ではない」
忠勝は家康の説明に頷きながら、日本から戦争を無くすために如何に家康が思量の限りを尽くしてきたかに思いをはせた。ただたんに天下を取るために、この人は生きてきたのではないのだ。民が半永久的に平和に生きていくためには己は何をすべきかを常に考えて生きてきた人なのだ。
熱く語る家康の瞳の中に忠勝は、平和への断固たる決意を見ていた。
以下56に続く
ネット小説ランキング>歴史部門>「琵琶湖伝」に投票 ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。


最近のコメント