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「歴史ネットワ-ク」

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灯~Akari【和洋中歴史風&歴史創作系イラスト/小説検索】

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2007年12月 2日 (日)

琵琶湖伝162「菊料理と高虎と」

琵琶湖伝162「菊料理と高虎と」

「意外と菊も食べられるものですね。うまいです」

先ほどまで泣いていた良之介は、気分転換がうまいのか、明るい顔で満足げに菊料理に舌鼓を打つ。

「うんそうだな。正英、敵のことが気になろうが悩まず、今は大いに食べてくれよ。どうせわしのおごりだからな」

藤堂高虎は、陰鬱な顔をしている正英を気にかけてやる。

日吉大社で、高虎と出会った正英は、急ぎ京に行かねば、反徳川派の者たちが何をしでかすかわからぬ状況と高虎に進言するが、高虎は笑って、

「今の京都で白昼堂々と事を起こす人間などおるはずがない。夜、それも闇討ちのような形でなら起こるだろう。急ぐ必要はない。それより、せっかく坂本に来たのだ。この時期だけの料理に菊料理というのが、ここ坂本にはある。わしに付き合え」

といい、馬に乗った。

梶川小兵衛に、馬をもう二頭さがして、西教寺の近くの料理屋に来るように命じると、のんびりと馬を日吉大社からそう遠くない西教寺にむかって歩ませ始めた。

西教寺(さいきょうじ)は、天台宗総本山の延暦寺、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)に比べ知名度は高いとは言えまいが、天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山として、多くのの末寺を有する名刹である。

明智光秀が坂本の地を支配した縁で、光秀の墓所があるところとしても知られている。

坂本では、昔より「菊を食べないと秋を迎えた気にならない」といわれるほど、松茸や栗より身近な秋の味覚のひとつとして、この土地でだけ栽培されている食用の「坂本菊」があり、鮮やかな色目と香り、しゃっきりとした食感の坂本菊を精進料理で味わおうと高虎はいうのである。

店につくと紅葉も鮮やかな庭に通され、菊料理が出される。

献立は、

前酒:菊酒(菊を一年間焼酎に漬け込んだもの) 

酢物:菊のなます 

和物:菊の白あえ 

揚物:菊のてんぷら 

椀物:胡麻豆腐の菊あんかけ 

御飯:菊寿司 

吸物:菊のすまし汁 

香物:菊の一夜漬け 
というもので、二頭の馬を調達してきた梶川も交え、四人は坂本の秋を満喫する。

ただ正英はやはり、今後のことが気になりついつい浮かない顔になる。

そのたびに高虎が正英に声をかけるのだ。

食事を終え、高虎が話したことは、正英と良之介には驚きの連続であった。

高虎が坂本にいたのは菊料理を食すためで、正英らに会ったのは偶然だが、なんと昨日まで彦根で井伊家の情報収集にあたっていたというのである。

正英については忠勝の護衛役として、大阪城などで遠くからではあるが何度か見たことがあり、昨日彦根を出るときも街中ですれ違っていたというのだ。

「おぬしたちも、井伊家を探りにきていたのであろう」

と高虎から言われたときは、正英も良之介も、

「なぜに、お分かりに」

と返すしかなかった。

高虎は、表情を変えずにいう。

「同じ任務を帯びた同士と思うたから助けたのよ。日吉大社で殺された者も本多のものであろう」

「そうです。この良之介と同じ本多家のお耳役の者たちです。五名の者が死にました」

「殺したのは、井伊か公家どもか心当たりはあるのか」

「どちらかは分かりませぬが、実行したのは高西暗報という者だと見当はついておりますが」

正英は高虎の問いに答えていく。

「高西というは、朝廷内で暗器師として仕えている烏丸家の手の者でござる。要は高西暗報は殺し屋の手先でござる」

梶川小兵衛がいった。

「五人も死んだのか。その者たちを死出の旅路に向かわせたのは、わしであり、また京都所司代の板倉勝重かもしれん。いや絶対にそうだ」

高虎は、独り言をいうかのようにつぶやいた。

以下163に続く

2007年11月 1日 (木)

琵琶湖伝161「藤堂高虎」

琵琶湖伝161「藤堂高虎」

いつのまにか正英と良之介のまわりは、膳所藩の役人とその手伝いのものたちに囲まれていた。

その中の一人が、

「この者の知り合いであろう。他の四名の者のこともある。我らと同道して事情を教えてもらえぬか。時間はかけぬ」

といった。

その役人の後方から戸板に乗せられた四名の遺体がこちらに向かってくるのが、正英には、見えた。

(ここまでのことをやってのけた奴らだ。そのまま京に行き金地院様を襲うかもしれない)

正英は焦燥感に駆られた。

一刻も速く京に行かねばならぬ。

良之介を見た。

地面にひざまずき、呆然としている。

良之介を立たせてから、

「拙者共は、急ぎの用がある者。どうか何も言わず、この場を立ち去らせてもらえまいか」

と役人に頼んだ。

あくまで正英たちの行動は隠密行動であり、膳所藩は本多家と同じ譜代とはいえ、何を目的に行動しているかなど言えるはずがないのだ。

第一、本多家のものだといっても、それを証明するものを持っていない。

一日あれば本多家のものとすぐにわかろうが、そんな余裕を正英は持てなかった。

役人が断れば、周りの役人たちを投げ飛ばして、逃げるしかないと腹を決めていた。

当然だが役人たちが、見過ごせるはずもなく、正英の頼みはすげなく断られる。

「それもそうでござる」

正英はにこやかな笑いを振りまきながら、逃亡のための行動を起こそうとした。

其の時、

「膳所藩の方々、お待ちくだされ」

と見物人たちを掻き分けながら、二メートルはあろうかという四十五、六の恰幅の良い男と、百七十センチくらいの三十二、三の痩せているが精悍な顔つきの男が進み出てきた。

痩せた方の男が、声をかけたのである。

そのままその男は膳所藩の役人たちに何事かささやき、役人たちも納得したのか、正英と良之介にこの場から立ち去るように告げた。

大男の方が、

「良かったのう」

とうれしそうに言い、先導役となり三人が後に続いた。

参道が終わるくらいのところに馬がとめられていた。

そこまでくると、大男は立ち止まった。

「失礼だが、我らの難儀をお助けくださり、挨拶を申したいのだが、どちらの方々か、皆目見当がつきませぬ。どちらさまかお教えくださりませぬか」

正英は丁重に言った。

良之介もペコリと頭を下げた。

もう涙も乾いている。

痩せた男が、

「拙者は藤堂家家臣、梶川小兵衛。こちらの方は、伊予今治二十万石藩主藤堂高虎様でございます」

と紹介をし、正英と良之介は地面に頭をつくばかりに平身低頭で応じた。

藤堂高虎は、この年四十六歳。近江に生まれ、二十歳で豊臣秀吉の弟秀長に仕え、秀吉の天下取りとともに出世し、大和を中心に百万石近い大領を支配した秀長の家老として活躍。

秀長が死去すると、その養子である秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征し、軍功を挙げた。

しかし一五九五年、秀保が早世すると高野山に上って出家する。

だが、その将才を惜しんだ秀吉が召還したため還俗し伊予宇和島七万石の大名になる。

秀吉が死去すると、高虎は次の天下人は徳川家康であると判断、日本の平和のために家康の天下取りに大いに貢献していく。

関ヶ原戦後、その行動は大いに評価され、家康から伊予今治二十万石に加増移封され、現在に至っている。

その忠勝をしのぐ大名である藤堂高虎が、なぜ今この坂本の日吉神社にいるのか、そしてなぜ正英と良之介に助け舟をだしたのか。

その理由は次回のことになる。

以下162に続く

2007年8月19日 (日)

琵琶湖伝160「泣いてる良之介」

琵琶湖伝160「泣いてる良之介」

日吉神社で惨劇が起こっていたころ、正英とお香と良之介は大津まで到着していた。お香はそのまま長岡(現在の京都府長岡京市)の高明寺を目指し、まず京都に入るため山科への道をとる。お香は背中に結んでいた菅笠と竹杖をほどいて、笠をかぶり杖を持ち、
「それでは、しばらくのお別れを」
としおらしく言いながら、二人と別れた。
正英と良之介は、坂本に向かった。唐崎をすぎ、坂本に入ると至る所で紅葉の視界であった。
日吉大社は、比叡山系の最高峰・大比叡峰の東方に位置する八王子山(牛尾山)を含む山麓にあり、二人は八王子山にむかって歩いていく。
吸い込むと胸が痛いほど、空気が冷たかった。
「見事な紅葉が続きますね」
良之介が感嘆の声を挙げる。
「うん」
正英も満足そうに頷く。
しかし、鳥の声もなく、異様な静寂が神社の参道を支配していた。二人は、一定のリズムに乗って参道を歩き続けた。その二人の傍らを人々が次々に追い越していく。速足で皆々が大鳥居のほうにいっている。正英は何となく不安な気持ちに駆られ、自然に足取りが速くなっていった。良之介も正英に合わせ、急ぎ足になっていく。
「大鳥居の方で何かあったのでしょうか」
良之介が、不安そうな顔で言った。
正英は、無言であった。何かあったのに違いない。大鳥居の前は黒山の人だかりだった。
背の高い良之介が人ごみを掻き分け、正英がそのあとに続いた。先頭に出たとき良之介は突ったったまま、前方の地面に眼をやっていた。
正英も慌てて、前方を覗き込んだ。
「茂左衛門様……」
良之介が低い声で叫んだ。
茂左衛門と呼ばれた男は、俯伏せに倒れていた。背中に刺し傷があった。流れた血が乾いた地面に、黒いシミを描いていた。
しかし、まだ死んではいない。かすかな動きがあった。
(京に入る前から修羅の道が始まっていたとは)
正英は暗澹たる気持ちになったが、眼の前の同士を見捨てて行くのは忍びないが、ここは表立って騒がず良之介と京に行くしかないと腹を決めた。しかし、若い良之介の思いは正英とは違っていた。
良之介はお耳役の立場をわすれ、介抱にあたる数名のこの地域を管轄する膳所藩の役人を無視して走りよったのだ。
「死して屍(しかばね)拾う者なし」という忍びの原則を忘れたのである。
正英は良之介の腕を押さえて止めようとしたが、間に合わなかった。
仕方なく正英も続いた。
「茂左衛門様、しっかりしなされ」
良之介が、茂左衛門を抱き起こした。
茂左衛門の顔に、血の気はなかった。良之介がさらに声をかけると、茂左衛門は、目を開いた。
もう何も見えない目が、まったく動かずにいた。
「突然、体がしびれてきて、他の四人はその場に倒れ、動かなくなったが、わしは、なんとか起き上がりここまで逃げてきたのだが。相手は二人組だった。一人は坊主頭」
茂左衛門の唇が、重く動いたが、そこまでだった。茂左衛門の上体が、良之介の膝の上から落ちた。絶命したのである。
目を見開いたままの茂左衛門のまぶたを良之介は合わせてやってから、遺体を地上にゆっくりと置いた。
「茂左衛門様は、私がお耳役を始めたときに、お耳役のいろはを教えてくれた方です」
良之介はつぶやくように言う。正英は、茂左衛門の傍らに見事に紅葉している木の葉が、数枚落ちているのが気になり、拾ってみた。
その木の葉についた匂いは、明らかにあの草津の街道でめぐりあった、高西暗報のしびれ薬の匂いであった。
「正英様、体がしびれたとは、まさか高西・・・・・・」
良之介が眼に涙を溜めながら問いかける。
「すまん。お前の言うとおり草津で殺すべきであった。あやつは自分の力を誇示するため、証拠を置いていった」
正英は、しびれ薬が染みている木の葉を良之介に見せた。

以下161に続く

2007年8月 5日 (日)

第三部江湖闘魂完結編159「修羅の道」

第三部江湖闘魂完結編159「修羅の道」

月はすでに落ちていたが、中空には薄明かりがさしている夜明け前である。一切の事物が動きを止めた暁の闇の中をひたひたと、数人の足音が続いている。
霧隠が猿飛を尾行してから、一週間ほど経った彦根。前日に彦根に潜入した、正英とお香と良之介が、孫六と十蔵に別れを告げて有田屋を出、大津への道を急いでいるのである。
お香の懐には、孫六が兄の雑賀孫市にあてた書状が入っている。この書状がお香の身元を証明することになる。
「いったいどんな人だろうね、孫市様って。孫六様が自分に似てるからすぐに分かるといってたけど、いろんなこと聞きたい。天王寺の戦いのこととか、信長様をどう思っていたかとか」
お香は、伝説の有名人に会えるというので興奮気味である。
「お香さんは、のんびり、長岡の紅葉(長岡の高明寺は当時から今にいたるまで紅葉の名所)でも見に行けばよいのですから、気が楽でしょうが、こちらはまた戦いになりそうなんですよ。物見遊山のようなことを考える気になりませんよ」
良之介がぼやいた。
「それなら、お香さんと交代してお前が長岡にいくか。俺もお香がいたほうが、心強かったりして」
正英が冗談とも本気ともつかぬことを言う。
「正英様、私は本多家のお耳役ですよ。坂本の日吉神社には午前中に五名の者が集まっていて、「わたし」と正英様を待っているのです。孫六様からきのう聞かなかったのですか。それに私だって男ですよ。プライドがあります。ここ数日に起こったことは、本当に恐いことだらけでした。彦根では弥助さんが死ぬし、あかつき峠では甲賀伝兵衛に殺されかけるし、草津の街道では高西暗報という気持ちの悪い殺し屋にしびれ薬をかがされたり、すごすぎですよ。お香さんと代わってもらいらい気持ちはあります。しかし私は男の子ですから。女の子には代わってもらえるわけがない」
良之介は顔を真っ赤にして、早口でまくしたてた。
正英は、笑いながら良之介の機嫌をとる。
「分かった分かった、怒らんでくれ。良之介、昼までに二人で、日吉神社に行くぞ」
そう言いながら、
(こんな気楽な気分も坂本までだろう。坂本で待っている五人とともに京に入れば地獄が待っているかもしれん)
と内心、これから始まるであろう修羅の道を思い、憂鬱な気分にもなっていた。

日吉大社(ひよしたいしゃ)は、近江国坂本(滋賀県大津市坂本)にある神社で、俗に山王権現ともいう。日本全国に約2000社ある日吉大社の祖本山である。十一月の時期は紅葉の名所としても知られている。
その大鳥居の近くの紅葉を見渡しながら、正英と良之介の到着を待つ五名の人影があった。孫六の命令で集まった本多家お耳役の者たちである。
葉を透かしてもれてくる陽光は、紅葉を輝くような赤に染め上げ、お耳役の者たちの眼を楽しませていた。
そよぐ風も心地よい。しかし、その風の中に五名の者の体の動きを封じようとするしびれ薬が、風上より鮮やかなもみじの木の葉に塗られて襲いくることに、誰が気づこうか。
木の葉がお耳役の者たちを通り過ぎたとき、すでに五名は、地に倒れ伏してしまっていた。
薄ら笑いを浮かべながら、倒れしものたちに近づいていくのは、高西暗報と宮内平蔵である。唐崎神社で落ち合った二人は、お耳役の者たちが日吉神社に集まっているという情報を得、奇襲をかけたのだ。暗報の「木の葉がえし」は絶大な効果を挙げる。すでに宮内平蔵の右手には、刀が握られていた。
以下琵琶湖伝160続く

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2007年7月27日 (金)

第三部江湖闘魂完結編158「空中決戦」

第三部江湖闘魂完結編158「空中決戦」

猿飛は、山伏の殺気を自分の気で受け止めるや相手の気までも自分のエネルギーに変え、力強く地面を蹴った。
その位置のまま、垂直に十メートルほど上がり、山伏に向かって急降下した。
その場での「信濃忍法さるとび」だけに、勢いには欠けるが、それでも十メートルの高さからの攻撃である。
一瞬のうちに八本の手裏剣が、山伏に降り注ぐ。
其の時、なんと山伏も地面を蹴り、宙に舞い上がったのだ。
山伏は、上昇しながら金剛杖で手裏剣を払い落としていく。
当然、猿飛佐助は下降している。
両者がほぼ同じ高さで、すれ違おうとした瞬間――。
山伏は、金剛杖を突き出した。
猿飛は、相手の動きに驚いていた。
今まで自分と同じような跳躍力の人間に会ったことがなかったのだ。
真っ直ぐに突き出された杖から何とか身をかわし、地面に降りたが、バランスを崩し、着地に失敗して転がる格好になる。
そこを狙って、今度は下降してきた山伏の金剛杖が猿飛の脳天に振り下ろされた。
常人ならばここで脳漿が飛び散ったであろうが、猿飛は常人にあらず。
瞬間移動、テレポーテーション(テレポーテーションという現象は人がある場所からある場所へ時に数千キロ、時には数メートルと、物理的に移動不可能な距離を瞬時に移動してしまう現象である)したのかというほどの速さで金剛杖を避けるや、着地した山伏に背後から切りつけた。
その刹那、山伏は装束だけを残し、三十メートルほど向こうにその姿を見せていた。
山伏の装束を捨てた忍びは、黒装束で立っている。
「おぬしは伊賀者だな。今のは伊賀忍法の奥義のひとつ、「雲霞(うんか)」であろう」
猿飛は、己の刃(やいば)をかわした忍者の技を評した。
評された男は、何も言わず胸の前で印を結んだ。
すると、突如大量の霧状のものが男をつつんだ。
それが晴れたとき、すでに男の姿はなかった。
わずかに鳥の声が聞こえるほどの静けさの中で、猿飛は普通の歩き方に戻っていた。
後を附けてきた者の気配は、完全に消えている。
真夜中に京都に入った猿飛は、菊亭の屋敷に入った。
それからしばらくして、猿飛の動きを確認した伊賀者が京都所司代にむかった。
猿飛と空中戦を演じ、霧をはり、その後、己の気配を猿飛にまったく感じさせずに尾行を完遂したこの男の顔に、筆者東洋は見覚えがある。
そう彼こそ数週間後、逢坂山で仲間の死に涙し、暗報と宮内平蔵の居場所を山内記念とともに突き止め、暗報を黄泉の国に遊ばせた男、霧隠才蔵であった。
一人で菊亭の跡を追った河田のみでは尾行はできまいと考えた喜市包厳の指示で、霧隠は山伏姿に変装し河田を追って紀州に入り、その直後、九度山を降りていく「ただならぬ」男を発見し、尾行を開始したのた。
京都所司代の屋敷内で、霧隠は喜市に怪しき者を追って、危うく殺されかけたこと、そしてその者が菊亭晴季と関わりがありそうだという報告をした。それを聞いた喜市は、
「真田の者で、お前と五分に戦えるのは、ただ一人だな。そやつこそ、甲賀流信濃忍法の継承者、猿飛佐助だ」
と言いさらに、
「殺されるくらいの敵に出会えてこそ、忍びは強くなる。手強い相手の「気」を己の「気」で受け止めて、お前の「気」はさらに高まっていくのだ。われら忍びは野ざらしとなる宿命だが、せっかくなら、強い敵と技の応酬をして、その果てに死にたいものよ」
と付け加えた。

霧隠は後年、「雲か霞(かすみ)か霧隠才蔵」といわれ、伊賀を代表する大忍者となった者である。

以下159に続く

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2007年7月23日 (月)

第三部江湖闘魂完結編百五十七「猿飛 京への道」

第三部江湖闘魂完結編百五十七「猿飛 京への道」

後を附けられている。

猿飛佐助は、そう思った。

尾行される恐れは充分にあり、猿飛はそれなりの用心もしていた。

高野山麓の九度山をあとにするときは、北へ向かってすぐに大和街道に出るのが普通であるが、わざわざ遠回りをして、西高野街道へ出ようとしていた。

それも尾行されることを、警戒してのことであった。

九度山に蟄居する真田父子の動きを、徳川方はひどく警戒し厳しい監視下にある。

まだ時代は関ヶ原の合戦が終わって二年とわずか。

真田昌幸・幸村父子は直接、関ケ原の合戦には参戦していない。

だが、昌幸・幸村父子は信州上田において、徳川秀忠の大軍と一戦を交え、多大の損害を与えている。

第一部で述べたが、もし本多忠勝が娘の夫である真田信幸に同調し命を賭けた訴えを家康にしなければ、真田父子の命はなかったのである。

家康はやむを得ず生かしたのであるが、やはり真田父子の存在が気になり始めていた。

いまのままでは、豊臣方の招きに応ずるかもしれない。

敵に回すと、厄介な真田父子である。

そうかと言って、急に赦免して、手のひらを返したようにもてなして、味方につけるというわけにもいくはずがない。

そこで家康は、和歌山を領有する大名の浅野家に、九度山の動きを徹底的に監視するように命じたのであった。

しかしそれだけでは不安な家康は、服部半蔵配下の多数の伊賀者も内々に置き、九度山の動静と、出入りする者たちに目を光らせていた。

その九度山を密かに、抜け出した猿飛佐助だったのだ。

真田屋敷から逃げた忍びの者を倒し屋敷に戻った猿飛に対し、幸村は翌朝の出立を命じた。

幸村の命で菊亭晴季の下で「信長の遺書」を探すことになった猿飛は、菊亭が表向きの目的である、高野山参詣のために高野山に向かい、猿飛一人で京都の菊亭の屋敷に行くことになったのである。

西高野街道を下り始めたとき、太陽はすでに猿飛の真上に来ていた。

徳川方の手の者の眼をかいくぐることなど、猿飛にはたやすいことであったが、それでも用心のための西高野街道であった。

しかしそこまでしても、後をつけてくる者がいたのだ。

背後に感じる人影は、山伏の姿をしている。

山伏は、山岳修行により宗教的な能力を身につける。

「山に伏す」ことから山伏(山臥)といわれた。

特定の霊場寺社に拠点をもちつつも、各地の霊山を渡り歩いて修行する「旅の宗教者」でもあった。

その山伏は頭に、兜巾(ときん 修験道の山伏がかぶる小さな布製の頭巾(ずきん))をかぶっている。

また、左手首に念珠を巻き、右手には金剛杖を持っていた

山伏に化けている徳川方の者か、それとも高野山で修行中の本物の山伏なのか、判断は不能であった。

判断するためには、何をしたらよいのか。

結論がでた瞬間、猿飛は走りだした。

時速四十キロ。

常人には考えられない凄まじい速さで走った。

千メートルを一気に駆けた。

次第に並足に戻していく。

やはりまだ、背後に視線を感じた。

同じ山伏が、息も切らずについてきていた。

もう遠慮はいらない。

この山伏は、明らかに忍びだ。

猿飛は足を止めた。

山伏も立ち止まる。

お互いの殺気がぶつかり、空気が波立ってきていた。

以下百五十八「空中決戦 霧隠才蔵」に続く

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2007年7月14日 (土)

第三部江湖闘魂完結編156「信濃忍法さるとび」

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第三部江湖闘魂完結編156「信濃忍法さるとび」

「ならばもし合戦となった場合、敵に持たせず、こちらが絶対に手にいれたいたいものがおじゃるのだが」

(豊臣への尽力依頼は、うまくいったわ)

菊亭は内心のうれしさを隠して淡々という。

「信長の遺書ですな」

幸村がいえば、

「ほしいよな。天下無敵になれるのだから。大田牛一が持っているというが、大田がどこにいるのか」

昌幸が嘆息まじりにいう。

菊亭が、

「長岡の寺でらや嵐山の天龍寺あたりに住んでいたということまでは、調べたのだが、わしの手のものの力ではそこまでだった」

とまたも「エサ」を撒いた。

「菊亭様の御家来衆でそこまで調べられるなら、ここにいる猿飛は確実に太田を探せますな」

昌幸が笑いながら答えた。

(本当によく食うわ、こいつら)

そう思いながら菊亭は、表向きは下手に出る。

「御協力願えますか」

「任せなさぁーい」

父子はまたも右手を高々と挙げた。

「ありがたい。感謝でおじゃる」

(これでここまで来た甲斐はあったな。「信長の遺書」の探索と豊臣家への尽力の依頼、両方アッという間に終わったわ)

そうほくそえみながら、眼からはウソ涙。

「泣かんで下され」

真田父子はなんと、もらい泣きをした。

昌幸は涙で鼻水まで垂らしだしたが、幸村はすぐに涙をふき、

「菊亭様、この猿飛をお貸しもうす。いかようにも使って下され」

そういった瞬間、幸村は脇差を抜き天井に投げた。

天井に刺さった脇差を通して、血が畳に滴り落ちてきた。

その時には、もう猿飛は、庭に飛び出していた。

夕暮れのうす暗がりのなかで、脇差が刺さったか、右肩を押さえながら、凄まじい速さで逃げていくひとつの影を、猿飛の眼は即座に捉えた。

その距離は三百五十メートル。

猿飛は、右後方の楠の大木に向かい走った。

そして木に飛び蹴りをする。

木にあたる衝撃から来る弾性力を利用し、その反作用をエネルギーに変えて、猿飛は空中を飛んでいった。

これぞ甲賀流信濃忍法の奥義「さるとび」である。

発射角度四十五度で空中に飛び出した猿飛は、地上四十メートルほどで、姿勢を立て直し、地面と水平にして逃げる曲者を追尾した。

すぐに追いつくと、頭を下向きにして急降下をしながら、十数本の手裏剣を曲者に向かい投げかけた。

まさか鷹のように人間が空から襲ってくるなどとおもっても見なかった逃走者は、何本もの手裏剣を受け、猿飛が着陸したときには、すでに虫の息であった。

猿飛は、どこぞの者かと聞こうとも思ったが、徳川の忍び者であることは聞くまでもないことで、絶命を待って眼を閉じてやり、また「さるとび」の術を使い真田庵に飛び戻って行った。

死んだのは、猿飛の予想通り徳川の伊賀忍者であった。

名は、河田無為二郎三郎(かわだ むいじろうさぶろう)、通称「カムイ」と伊賀者の仲間内では呼ばれていた男であった。

当然だがあの有名な抜け忍カムイとは別人である。

京都所司代付きの伊賀者であり、菊亭晴季という今や宮廷内の政治から疎外されつつある人物への監視役として、一人その任に着いていた。

その仕事に忠実な河は、京都を離れた菊亭を追い紀州真田屋敷まで来て、この悲運にあったのである。

松尾芭蕉の俳句に、

野ざらしを

心に

風のしむ身かな

というのがあるが、まさに忍びの者への鎮魂歌である。

カムイもまた野ざらし(行き倒れとなり、野に白骨となっている有様のこと)になるしかないのだ。

猿飛が眼を閉じてやったのは、同じ忍びの世界に生きるものとしての礼儀であった。

隠密同心心得の条

「死して屍(しかばね)拾う者なし。死して屍(しかばね)拾う者なし。死して屍(しかばね)拾う者なし・・・・・・」

以下157に続く
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2007年7月12日 (木)

第三部江湖闘魂完結編155「元気です真田です」

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第三部江湖闘魂完結編155「元気です真田です」

「突きまくって突きまくってガンガンやりで、グハハハッ」

「やはり、お若い。麿(まろ)はもう六十と三つあまり。とてもそのような元気は」

「何の何の、南野陽子。わしとてもう五十五歳。から元気でござる」

「で、そのあとは私がガンガン突きまくりで、腰をいれてしっかり突きました」

「まぁ、そのあとは息子殿が、親子そろってがんばりますなぁ。ホホホホホッ」

扇子を口にあてながら笑うのは、従一位右大臣菊亭晴季(きくてい はるすえ)である。

話は若干さかのぼり、一六〇二年十月の終わり。

場所は紀州九度山の真田庵。

すでに冬の足音が聞こえる山の秋の夕暮れ。

真田庵に集いしは、菊亭晴季とこの庵の主である真田昌幸と息子の幸村、そして三名から離れて護衛役の猿飛佐助が座っている。

真田父子は、菊亭の訪問を自分たちが捕まえた、いのししの鍋で迎えた。

そして、檻(おり)の中にエサを置き、いのししを誘い込んで檻を閉める仕掛けの話をし、さらに檻に入ったいのししを出来るだけ傷つけずに殺すため(良い肉を得るには、槍の一突きで殺すのが最良。鉄砲などでいのししの部位を損傷させるのは下の下の狩猟法である)に槍をどう突いたかを、

「突きまくってガンガンやり()で」

としゃべっていたのである。

今読んでて、変なことを考えた人いませんか―。

元に戻りま―す。

江戸時代に作成された『真田家系図』に拠れば、真田氏は清和源氏の発祥で、数代を経て昌幸の父幸隆の時代に信濃真田郷を領して以後、真田姓を名乗るようになったという。

もともと京都の公家とつながりの深い家柄であり、昌幸は菊亭家ゆかりの娘を妻としていて、菊亭家とのかかわりは古くからあった。

ただ、いくらかかわりがあっても、真田父子は徳川家により、紀州九度山に幽閉されている身である。

菊亭家と真田家のあいだで自由な往来など出来るはずがない。

菊亭晴季は、高野山参内の名目で京を出て、高野山の通り道にあたる九度山の真田庵にひそかに入ったのである。

なぜそこまでして、紀州に来たか。

真田父子に、「信長の遺書」の探索と事あるときは豊臣家のために再度立ち上がってくれることを、頼みにきたのである。

言い換えれば、わざわざこの一六〇二年の十月の終わりに危険を冒しても、紀州に来なければいけない事情が菊亭晴季にあったのである。

それは徳川家康の源氏長者と征夷大将軍任命への動きの活発化であった。

来年の初めにも詔(みことのり)が出る可能性があり、最後の詰めのため、現在駿府にいる家康自らが、十一月か遅くとも十二月までに天皇に内密に拝謁し、会談をするという情報が菊亭の元にもたらされたのである。

ただその情報は朝廷内では公然の秘密であり、既定の路線ともいえるものだった。

ここで菊亭晴季について述べれば、秀吉に関白任官をもちかけ、その功績で秀吉から従一位をもらた男であり、豊臣と朝廷のパイプ役であった。

関白は、百官を統率して政務万端を行なう。

天皇の代理を務める摂政と、実質的には違わない。

摂政は、天皇の宣命を代書することが許される。

関白には、それができない。

摂政と関白の違いは、それだけのことである。

関白になることができたのは、日本史上藤原氏以外に豊臣秀吉とその甥の秀次の二人しかいないのであった。

つまり、菊亭は氏素性がこれほどはっきりせず、超のつく成り上がり者である秀吉を、日本一尊い豊臣家に作り変えた手品の仕掛け人であり、実行者であった。

秀吉が褒美に菊亭に従一位をやったのは、当然のことである。

しかし、今はどうか。

秀吉は死に、関ヶ原以後、時代は徳川であり、朝廷内では徳川のパイプ役勧修寺晴豊の勢いに押され、また反徳川派の首魁、関白九条兼孝は武家嫌いで、豊臣とも距離を置こうとしていた。

歴史という大河の大きなうねりの中で菊亭は、岸に打ち上げられた魚であった。

もう一度、水を求めるためには、家康に対抗できる力を豊臣が持つしかない。

しかし大阪城の幼い秀吉の遺児秀頼のまわりには、軍事的にも政治的にも実力ある者がいない。

来年にはあろう、徳川家康の源氏長者と征夷大将軍任命の詔が出るまでを座して待つことなど、菊亭に出来るはずがなかった。

もし「信長の遺書」が手に入り、さらに真田父子が豊臣家の支えになってくれたら、これほど心強いことはない。

真田父子は、菊亭にとって最後の頼みの綱であった。

「今の状況は革命でおます。信長のパープリンが死んで秀吉さんは、公家側の関白さんでがんばってくれはった。日本古来の公家の祭り事の時代が到来したんです。それをあの勧修寺が狂ったように徳川家康こそ日本を救うお方、源氏長者と征夷大将軍任命をと歌いまわってとうとう、任命直前の段階になっておる。パートヨ(はるとよ)の武家びいきは朝廷の存在意義を消し去るものでおじゃる」

菊亭は、真田父子を前に、ため息まじりに言ったのである。

家康の源氏長者と征夷大将軍任命の話を聞いて、真田父子は驚く。

「家康のカスが征夷大将軍になって幕府を開けば、朝廷以上に豊臣の存在意義は消えていきますな」

昌幸がいった。

「そうでおじゃる。麿も豊臣もバッタンキュ―と倒れて終わり。昌幸がもう一暴れといっても、お前も何もできぬよな」

菊亭はわざと昌幸を挑発し、昌幸のケダモノじみた闘争心に火をつけようとした。

「誰ができねぇんだあよ」

もう一人のケダモノ、息子の幸村が乗ってきた。

「できはるなら是非、豊臣のために一肌脱いで下さらんか。豊臣とてこの状況を指をくわえて見ているわけにはいかんからな」

「任せなさぁーい」

真田父子は、同時に、右手を高々と挙げて同意した。

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2007年7月 6日 (金)

第三部江湖闘魂完結編154「伝説 雑賀孫市」

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第三部江湖闘魂完結編154「伝説 雑賀孫市」

「孫六様、もし実在するなら「信長の遺書」は、我ら徳川が手に入れねばなりませんな。反徳川の者が探し出せば天下の大乱は必至」

正英が顔を強張らせていう。

孫六は十蔵を見張り役として、彦根涼単寺の天井裏に一人入り石田三成を確認した時、三成と広瀬は「信長の遺書」の在りかについての話し中であったことを皆に教えた。

「では、広瀬たちは太田様の居場所を知っているので」

十蔵が孫六にきく。

「いや、具体的には知らぬようだが、京都かこの近江のどこかにいるといっておった」

孫六が答える。

「この広い日本の中でなぜに京都か近江なのですか。当てずっぽうの推測ですね」

正英がやや安堵の表情をする。

孫六が顔を曇らせていう。

「実はわしも太田様がこの近江か京都にいるのではないかと考えていたのだ。太田様は僧の資格をもっている。太田様ほどの方が秀吉様亡き後、皆目、行方知れずなど、ありえるはずがない。となれば灯台もと暗し。京都や近江には大小さまざまな寺が、数え切れないほどある。その寺の一つに住職にでもなって潜んでいれば、これはわからぬであろう」

「すると、井伊のやつらは太田様の居所を」

正英がいう。

「わからぬ。探し当てているのかどうか。そこでお香さんに京都の長岡にある高明寺(こうみょうじ)に行ってもらいたいのだ。井伊のものどもより先かどうかは分からぬが太田様を探し、「信長の遺書」を手にいれる努力はすべきだろう。その高明寺で寺男をしている木兵衛(もくべえ)というものに会ってもらいたいのだ」

お香は、

「木兵衛さんに会ったらいいことあるんだ」

と微笑む。

孫六も微笑みをかえしながらお香にいう。

「木兵衛さんは昔からの大田様の顔なじみでな。そうだな、信長様の雑賀攻め(一五七七年)のときに交渉役として太田様が来て以来の友人関係だから、二十数年のつきあいかな。きっと太田様について詳しく教えてくれるはずだ。」

「孫六様、私には木兵衛という方が、どなたか分かりました。それ以上いうべきではないかと」

元雑賀衆の十蔵がかなり厳しい口調で孫六の話を制した。

予想外の十蔵の行動に正英は驚きを覚えながら、ひらめくものがあり、それを口にした。

「木兵衛とは、あなた様の兄にして、あの雑賀鉄砲衆の頭領であった、雑賀孫市様では」

この状況なら正英の推測は難解ではなかったであろう。

織田勢との交渉をするとすれば、雑賀衆頭領の雑賀孫市がまず頭に浮かぶはずだ。

まさにその通りであった。

琵琶湖伝五十で述べてが、兄孫市と孫六は秀吉軍の包囲網からの決死の脱出に成功し、紀伊を抜け、大和の国に入り、大和郡山まで逃げのびたのち、孫市は己の路銀の全てを孫六にわたす。
 「雑賀がこのような事態に陥ったのは、指導者たる自分の責任が大
きい。今から京都の知り合いの寺を訪ね、どこぞの寺男として生き、
死んだ者たちの供養をしながら生きようと考えている。二度と世間には出ない。お前は、雑賀にこだわらず、好きなように生きよ」

そういうと、孫市は京への道を歩み、孫六は、自分探しの旅に出て千葉大多喜で本多忠勝に会う。本多家お耳役の責任者になった孫六は、自然と京都を回ることが多くなり、六年前に長岡の光明寺で兄と偶然再会したのである。世を捨てた兄の意思を尊重し、そのあとは何度か手紙と生活の足しにと幾分かの金を送っただけであった。

孫六は十蔵に落ち着けというように左手を軽く上げ、

「いいのだ。世を捨てた身とはいえ、兄も天下の平和のためなら、世俗の垢にまみれることを、いとわぬはずだ」

といった。

「あの伝説の雑賀孫市に会えるんだ。しあわせ」

お香は唇を震わせ、伝説の英雄に会いにいける幸運をかみしめていた。

そのとき、良之介が突然いう。

「ところで太田様は、「ぎゅういち」といわれますが、「う(しかずともいわれますよね)」」

良之介の言葉は、「う(しかず)」の「う」までで終わることになった。

危険を察知した正英、お香、十蔵の三人が一斉に飛び掛かり良之介の言葉を封じたのである。

世の中には、「もっとも簡単な言葉で誰でも言えるが、ある者の前では絶対にいってはいけない恐ろしい言葉」が存在するのである。

以下155に続く

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2007年7月 4日 (水)

第三部江湖闘魂完結編153「太田牛一伝」

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第三部江湖闘魂完結編153「太田牛一伝」

この琵琶湖伝中には、「もっとも簡単な言葉で誰でも言えるが、ある者の前では絶対にいってはいけない恐ろしい言葉」がある。

賢明なる読者の皆様にはもうお分かりであろう。

それは、孫六に対する「牛」である。

この「もっとも簡単な言葉で誰でも言えるが、ある者の前では絶対にいってはいけない恐ろしい言葉」を名に持つ男、太田牛一とはいかなる者であるのか、簡略に述べる。

太田牛一(おおた ぎゅういち、うしかずともいう)は、一五二七年に尾張の国に生まれ、一六一三年に大阪で亡くなった、当時としてはかなりの長寿を全うした人物である。

最初は柴田勝家の家臣であったが、一五六八年よりその武術と書記官的才能をかわれ、織田信長直属の家臣となる。

太田牛一は、若きより弓術の名手として知られていたが、信長の近江進出に伴い一五七五年ごろより、琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有する大津の天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)の総本山である三井寺(みいでら 正式名称は長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ))において、伝教大師最澄様直伝の独鈷比叡剣の流れを汲む三井園城拳の習得に励み、己の武術にさらなる磨きをかけた。

一五八二年の本能寺の変のときは、近江大津堅田近辺の代官を勤めていた。

信長亡き後一時期仏門に入ったが、九〇年豊臣秀吉にその武術の才を請われて出仕、秀吉の警護責任者的役割を果たす。

すでに齢(よわい)六十三であったが、その肉体は壮健にして二十代の若者にみえたという。

同年に行われた「美里拳論会(琵琶湖決戦編八三、八四参照)」には、老年の身ながら出場、準決勝まで勝ち進み、古今天真拳(古今伝授(こきんでんじゅ)継承者のみが学べる空海ゆかりの武術)を使う細川幽斎(一五三四年に生まれ一六一〇年に亡くなる。足利義昭の側近であったが、後に織田信長に仕え、信長死後は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、時代の変転を見事に見極め生きていく。そういう戦国武将の一面とともに当代一流の文化人でもあり、師から弟子へ口伝される秘事としての古今和歌集の解釈の要諦(古今伝授)を当時唯一知る人物であった。九〇年当時は丹後宮津城城主)と対決。

太田牛一は、空中書 (書の達人でもあった空海様や最澄様の筆法から生まれ、筆に気を込め空中に描いた文字で敵を攻撃したり、空中に碁盤の目を描き空中碁で相手と頭脳勝負をしたりするものである。両者の対決は数時間に及び、美里拳論会の歴史に残る名勝負となったが、最終的には空中碁で幽斎が、中押し勝ちをして勝敗が決した) 対決に惜敗する。

そして一五九八年の秀吉の死後、その消息が不明となる。

一六〇三年突如大阪天満に姿を現し、晩年の十年をそこで過ごす。

その間に織田信長の一生を描いた「信長公記(「しんちょうこうき」と読む。「のぶながこうき」でも「しんちゃんうきうき」でもないから注意したい)」を書き残す。

「信長公記」は現在においても、信長関係の資料としては一級のものとみなされている。

以上が巷間伝えられる太田牛一についての紹介に、勝手な解釈も付け加えたいい加減なものであるが、当然の如く時の権力に恐れられた「信長の遺書」は歴史の闇に葬り去られ、資料偏重の現在の歴史学会においては誰もその存在を認めていない。

また秀吉死後からの五年間の太田牛一の足跡も分かっていない。

この歴史の闇に光を当て、愛と正義と真実を追求することを趣旨とする「琵琶湖伝」では、正史に語られぬ部分にあえてメスをいれるわけである。

太田牛一は、何処に・・・・・・。

では話を彦根有田屋の板間に戻すことにする。

「信長の遺書の行方を探ってもらいたい」

といわれたお香をはじめ正英、良之介、十蔵は、「信長の遺書」という名辞に首をかしげる。

この場の雰囲気を察した孫六は、「信長の遺書」についての説明をした(琵琶湖伝152参照)

当然だが孫六は、「おおたぎゅういち」と読み「おおたうしかず」とは読まなかった。

もし「うし」と読んだら。

この世の中には、「もっとも簡単な言葉で誰でも言えるが、ある者の前では絶対にいってはいけない恐ろしい言葉」があるのだ。

孫六が「うしかず」と読まなかったのは、幸いであった。

以下154に続く

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2007年6月30日 (土)

第三部江湖闘魂完結編152「信長の遺書」

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第三部江湖闘魂完結編152「信長の遺書」

「信長の遺書」とは何か。
 今回はこの由来について話すことにする。
 一五八一年、この年の織田信長は、絶頂期であったといって良いだろう。
 天下布武を悲願とする信長に対抗する有力勢力は、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、大阪石山本願寺、そして中国の毛利氏であった。
 まず武田氏は、信玄亡き後当主となった勝頼の主力部隊一万五千を一五七五年長篠の戦で完膚なきまでに叩き、以後武田氏は衰退していく。
 一五七八年には北陸方面の織田軍を悩ませていた越後の上杉謙信が急死し、その後上杉家は後継ぎ争いが起こり、織田家の能登加賀越中への北陸方面侵略を阻止する力はなくなっていく。
 信長最大の難敵、石山本願寺は、一五八〇年正親町天皇の勅命を受け入れ和睦して大阪から退去。
 石山合戦は終了する。
 中国地方に圧倒的優位を占めていた毛利氏も、一五七九年以降、織田家重臣羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の攻撃を受け、同年毛利家の最大協力者であった備前の宇喜多直家が、織田家に服属したことで、織田家と毛利家の中国での勢力地図は逆転し、播磨、但馬、因幡、淡路と次々に織田家の支配下に入る。
 四方に敵がなくなりつつある中で、信長は一五八一年二月には京都の内裏東の馬場で一大的なデモンストレーションを行なう。
 いわゆる京都馬備えであるが、これには信長はじめ織田家一門のほか、丹羽長秀、明智光秀ら武将たちも華やかないでたちで参加し、正親町天皇も臨席した中、織田軍団の武威を示すものとなった。
 この馬備えを終わらせた数日後、信長は大津代官太田牛一を呼ぶ。
 前々から武術の才のみならず太田の文学的才能も認めていた信長は、己の今までの戦争を分析した軍事的論文を書くための補佐役として牛一を指名したのだ。
 すでに天下布武が眼前に迫っている今、織田家の将来のために、自分の軍事的事績を整理分析、絶対不敗の軍事論を作成し、子孫に残そうと考えたのである。
「天翔将星記 (てんしょうしょうせいき)」と題がつけられたその書物は、信長の言を牛一がまとめて
整理したものを信長がさらに加筆訂正していくといった形で行われ、五月の終わりに完成する。
 翌一五八二年五月、信長は再度、牛一を呼び出し若干観念的であった「天翔将星記」に多くの戦闘事例を加えた、完全版「天翔将星記」の完成を目指す。
 五月の終わりに最終草稿を大津の自宅に持ち帰り、最後の整理をしていた牛一の元に飛び込んできたのが本能寺の変であり、信長の死であった。
 「天翔将星記」執筆における信長と牛一の共同作業は隠密裏の作業であり、傍目には牛一が大津代官の報告を信長にしているように偽装されていた。
 側近の何人かは「天翔将星記」の存在を知っていたが、すべて本能寺で信長と死をともにする。 この日本最高の兵法書である「天翔将星記」の存在を唯一知り、また信長の不慮の死でやむを得ず、それを所有することになったのが、太田牛一であった。
 「天翔将星記」こそ後年「信長の遺書」と呼ばれ、その書を読めば「天下無敵」になれるといわれた伝説の書物、本能寺の変で炎に包まれながら信長が臣下の一人に託して逃がし今も日本のどこかにあると噂される、それから数百年のときを超え、大日本帝国陸軍参謀部が血眼になって探した、現在ではそれを受け継いだ自衛隊幕僚本部が行方を追っている大宝典である。
 十九世紀に生きたプロシア王国の軍人で、ナポレオン戦争の経験をもとに戦略戦術論を著し、近代参謀本部シテムを確立した同じプロシアのモルトケやロシア革命を指揮したレーニンにまで影響を与えた、クラウゼヴィッツの「戦争論」、そして二十世紀中国に生まれ、弱小な軍隊が強大な敵と戦い勝利するための軍事理論を述べた毛沢東の「中国革命の戦略問題」他の多数の著作、中でも「持久戦論」と並び信長の遺書」は、世界三大戦略戦術論にして日本最高の軍事論文なのである。
 以下153に続く

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2007年6月28日 (木)

第三部江湖闘魂完結編151「孫六、決断す」

第三部江湖闘魂完結編151「孫六、決断す」

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「その通りだ。先入観は捨てるべきだ。しかし、これ以上三成か否かを詮索しても無意味だ」

孫六が決然という。

「どうされたいので」

十蔵が孫六にこれからのことを聞く。

「まずは三成の確保または暗殺だ。できれば身柄を確保し、桑名に送り事の詮議をしたい。最悪の場合、殺すことになるだろう。ただ三成を確保した時点で、広瀬、いや木俣様も含めてかもしれないが、井伊家の謀反人たちは、全力を挙げて、我らを殺しにくるだろう。しかし隠密裏に動くしかない。もしこのことを公にすれば、井伊家は反徳川の立場で彦根に立て籠もるだろう。さすれば、全国の反徳川の大名や大阪の豊臣家が井伊家に呼応し立ち挙がるは必定」

孫六の推測は周りを頷かせた。

正英がいう。

「今、大切なことは源氏長者と征夷大将軍の詔(みことのり)を朝廷からいただくこと(第一部三十二参照)。井伊家が武装蜂起をすれば、また戦乱の世となり、朝廷の詔など夢のまた夢。この井伊家の見えない大火事を見えないままに鎮火することが肝要。三成を確保するより、すぐに殺し、大火事が起こっていることを知っている人間がいることを、井伊家に教えるべきでは」

お香が反論する。

「英さん、間違ってる。英さんたちの行動は井伊家に筒抜けだったし、井伊家再潜入では二度も襲われた。井伊家は、大火事を分からぬようにしたいけど、気づかれたなら其の時は、殺し合いをする覚悟はできてるはず。気づかれたから行動を控えようという段階ではないわ。もう食うか食われるかの真剣勝負の段階に入ってる」

腕組みをして聞いていた一歩十蔵が、案を出した。

「私は場合によっては、忠勝様が井伊家に直接介入し、井伊家の謀反人たちを理によって抑えることが必要かと。もし理によってうまくいかないなら、実力行使で井伊家の上層部の人間を木俣様を含めて全員暗殺して幹部たちの総入れ替えをし、とにかく火事を消すことにすればよいでしょう。ここで議論するより忠勝様の判断にゆだねるべきでは」

正英と良之介が同時に右手を挙げ、賛成の意を示す。

孫六も賛同し決断した。

「よし決めた。今からの各自の行動を指示する。十蔵はわしが書く報告書をもってすぐに桑名に向かえ。おぬしの足なら明日の朝にはこの場にいよう。正英と良之介は、新しい任務がある。彦根はわしと十蔵と今涼単寺の偵察にいってる与平と勘太で間に合うし恐らく、忠勝様も応援をよこすであろう。実は京都の反徳川の公家の中に過激な動きがあり、親徳川派の公家たちがかなり危険な状況になっている。さらには、徳川家の朝廷工作の実行役である金地院崇伝様の命も何度も狙われているのだ」

「われらに崇伝様の護衛役を」

正英が先を言った。

「そうだ。京都所司代板倉勝重様の直々の要請だ。すでにお耳役の残りの五名にも声をかけている。明日の昼、大津坂本の日吉大社が集合場所だ。正英が指揮を執ってくれ。良之介は正英が責任者であることを他のお耳役に告げよ」

「御意(ぎょい)

正英と良之介は声をそろえて了解の返事をした。

孫六はさらにお香にも声をかけた。

「お香さんあんたにも頼みがある」

「え、あたしになんですか」

「信長の遺書の行方を、探ってもらいたいのだ」

お香はキョトンッとした表情をし、

「孫六様、今何を探せとおっしゃられたので」

と聞き返した。

「信長の遺書だ」

再度、孫六がいう。

「信長の遺書」

初めて聞く言葉に、お香のみならず他の三人も思わず声を挙げた。

以下152に続く

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2007年6月26日 (火)

第三部江湖闘魂完結編150「夢見るお香」

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第三部江湖闘魂完結編150「夢見るお香」

「正英様、いかがされました」

良之介がその様子をいぶかしがる。

正英は、井伊家の中にあるであろう陰謀について考えているうちに、あの関ヶ原の濃霧の中で本多忠勝がわめいていた言葉に思いがいっていたのだ。

正英は、おもむろに口を開いた。

「松平忠吉様が井伊様とご一緒に福島隊の前に出て、鉄砲を前面の敵、宇喜多隊に撃ちかけられ関ヶ原の戦いが始まるというほんの少し前に、忠勝様と私は家康様のすぐそばにいました。あの濃霧を前に、忠勝様はいつものように、冗談とも本気とも、やはりどう考えても冗談を家康様相手に申されておりました。ただ其の時、「この霧の向こうには陰謀が見えまする。そうそれは、クローディアスがハムレットの父を殺し、一国をうばったような。邪悪な邪悪な者たちの謀りごとが(第一部関ケ原激闘編その一「サーカスにはピエロが」参照)」とおっしゃられたのです。今になって考えれば、忠勝様は関ヶ原のときにすでに井伊家の中に潜む反徳川の陰謀を察せられていたのかも」

孫六や十蔵は、

(忠勝様なら、さもありなん)

といった調子で納得気に首を縦に振る。

しかし、良之介は別のことが気になっていた。

「クローディアスって誰」

皆に問う。

お香が、稲垣吾朗主演の映画「催眠」で催眠術をかけられた菅野美穂が宇宙人のメッセージを伝えるといって机の上に立ったように直立不動となり、ロボットみたいなカタコト言葉でしゃべりだす。

「ク・ロー・ディ・ア・ス・とは・シェイ・ク・ス・ピア・の・戯・曲・ハ・ム・レッ・ト・の・登場・人物(以下普通に書きます。気分は菅野美穂)。ハムレットの叔父でハムレットの父を殺し、デンマーク王になる男です」

お香は言い終わると満足げにすわり、「愛をください」を一番だけ歌った。

その歌を無視して、

「なるほど、クローディアスは井伊家なら旧武田家家臣団とその頭領広瀬将房のことか」

孫六が言えば、正英も、

「その通り」

と鼻息荒く頷く。

場の雰囲気が高揚し始めたとき、十蔵は皆を落ち着かせるように、冷静な言を吐いた。

「決めうちは恐いですぞ。木俣守勝様とて謀反人でないという証拠はござらぬ。井伊様の最後のお言葉を聞いたのは木俣様ですぞ」

木俣をよく知る正英と孫六が眼を丸くして十蔵を見た。

そして桑名城で忠勝が言ったことが頭をよぎっていた(琵琶湖伝六十九参照)

「遺言を聞いたのは木俣守勝だけだ。酒に毒をいれ、あの真面目そうな顔で「殿、一杯どうぞ」などといわれたら、わしでも飲んで、死ぬかもな」

正英と孫六は、何とも言えぬ底知れぬ闇の底を見ているような気分になった。

そのときお香がまたもや立ち上がり、瞳からキラキラ光線をだしながら、安室奈美恵とウーパールーパーを足して二で割ったような顔をして、貧乳の胸の前で両手を組み、

「十蔵さんの言う通り、先入観は恐いわ。英さんも孫六様も事実のみを見るの。賢いキツネが言ったわ。眼で見ちゃだめ、心で見るのって」

とサン・テグジュペリの「星の王子様」の一節を引用しながら言った。

以下151に続く

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2007年6月24日 (日)

第三部江湖闘魂完結編149「井伊直政暗殺事件」

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第三部江湖闘魂完結編149「井伊直政暗殺事件」

「石田三成は死んでいない。あのお坊様は似すぎているどころか本人そのものだ」

孫六が己の周りに座る井原正英らを見回しながらいった。

昨夜、孫六は一歩十蔵とともに涼単寺に潜入し、天井裏からはっきり確認したのである。

「しかし、なぜ三成が平気な顔をして彦根にいるのですか」

良之介が孫六に問うと孫六の代わりに正英が答える。
「三成は、関ヶ原後に捕縛されてから10月1日京の六条河原で刑殺されるまでのあいだ、その身柄を井伊直政があずかっていた(司馬遼太郎氏「街道をゆく24近江散歩」第1部関ケ原激闘編33「真田信幸」参照)。そのとき井伊家の者の手でにせ三成と入れ変わったのであろう。死んだのは偽者で三成本人は井伊家の者たちにかくまわれて彦根にいたのだ」

「なるほど、そう言えば三成は処刑される前に、のどの渇きを覚え、周りの護送役の者に水を所望し、水の代わりに柿が出されたところ、体に悪いと拒否した逸話がのこされているが、死ぬ直前のものが、体に悪いからなどと明日も生きるようなことを言うのは不自然な話だと、前から思っていた。今から死ぬものが何をいうと護送のものたちが大笑いすると、三成は死ぬ直前まで武人として明日を考えたいと言ったそうだが、出来すぎた話だ。三成のにせ者が己は処刑されるなどと思っていなかったとしたら、柿を拒否した話も自然に聞こえるな」

十蔵が正英の考えに同意するように三成の逸話を述べた。

「それならば、井伊直政様は三成が偽者と入れ替わったことに気づかなかったのか。死ぬまで同じ彦根にいたのにきづかぬとは、あまりに迂闊ではないか。まさか直政様も三成を護った一人か」

孫六が誰にともなく疑問を投げかける。

「いや私が三成に似た僧を見たのは、直政様の死後涼単寺が建立されてからのこと。それで驚いて孫六様に報告したのです。おそらく、直政様が死ぬまで三成はどこかに隠れていたのでしょう」

十蔵が孫六の疑問を否定すると、正英もそれに続いた。

「私も直政様は何も知らなかったのではないかと。それどころか、知られてこまる者どもに殺されたと考えております。だからこそ暗殺の証拠を消そうと火葬にした(琵琶湖伝五七、五八、六九参照)のでしょう。ただ墓の中に骨が残っている。毒殺ならその骨から分かります」

「うん、だからこそ、忠勝様の命でこの孫六も彦根に入ったわけだが、三成存命とわかれば、直政様が暗殺されたことは確実だろう。三成をいかし、直政様を殺したのは誰かとなるが、昨夜三成似の僧と話していたのは、旧武田家家臣団の指導者、広瀬将房(まさふさ)であった。三成をかくまい、直政様がそれに気づかぬとなると、井伊家中でもかなりの実力者であろう。木俣守勝様とならぶ家老格の広瀬なら、謀反人の資格充分、主殺しの大悪人にして、三成をかくまう徳川に弓引く者だ」

孫六の口調は熱気を帯びてきた。

正英も同調して、
「広瀬将房が謀反の指導者ならば、井伊家の中心を占める旧武田の者どものかなりが、いやもしかすると全員が直政様暗殺に加担している可能性がありますな」

と言い、そのあと両方の手の平を合わせ、虚空を凝視しだす。

以下150に続く

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2007年6月22日 (金)

第二部148「サーカスにはピエロが」

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題名は第一部その一と同じです。
第二部はここまで、
149から第三部江湖闘魂完結編です。

第二部148「サーカスにはピエロが」

僕はいま両足を抱きかかえこの峠の上に座っている

この道を最初に来た君と一緒に旅にでるために

サーカスにはピエロがつきものなのさ

だっていつもいつも君が

笑っているとは限らないもの

サーカスにはピエロがつきものなのさ

だってきのうの思い出に

別れを告げるんだもの

(詞曲 西岡恭蔵「サーカスにはピエロが」)

西岡恭蔵の「サーカスにはピエロが」を誰かが歌っている。

お香は次第に戻っていく意識の中で、すばらしいバリトンに思わず聞き惚れ、西岡恭蔵さんには「プカプカ」という傑作があったわ、それに矢沢永吉の初期の名曲「トラベリング・バス」の作詞者だったとまったく無関係なことを考えながら眼を覚ました。

歌っていたのは雑賀孫六であった。

手には一升瓶が握られている。

孫六の周りには、からの一升瓶が数本転がっていた。

「孫六さん、歌がうまいんですね」

まだボーッとした顔でお香がいう。

「それほどでもないが」

謙遜したが満更でもない顔をする。

「でも、お酒をあまり飲むとお体にさわりますよ」

孫六を気遣うと、

「うん、なぜかわからぬがさっぱり酔わん。これで六本目だよ。もうやめようかの」

と答えた。

二度の牛化は孫六の肉体を大幅に作り変えることになったのである。

一言でいえば、「牛並み」になったのである。

だから、日本酒を一升瓶で何本飲んでも酔わないのである。

しかし「牛並み」になったことは、孫六にも他のものにも分かるはずがないことであった。

良之介もすでに意識は戻っていた。

あえて起きないで、寝たふりをしているのだ。

なぜか。

また、孫六がお香を襲うのではないか。

そのときは、どさくさに紛れて自分も参加しようという、とんでもない下心を抱いての狸寝入りであった。

「わぁ孫六様の立派にたってる」

お香の声が聞こえる。

「そうだろ、こりゃ今日は調子がよいぞ」

孫六の声。

「すごくでっかい」

またもお香の声。

(こりゃお香さんも積極的だ)

良之介が様子を伺おうと薄目を開けかけたとき、

「孫六様お、お許しを。お香は拙者の許嫁(いいなずけ)でござる」

と正英が大声をだしながら、ガバッと起きた。

正英も意識が戻っていたのだ。

あまりの大声にキョトンとして正英を見つめるお香と孫六。

正英の眼に飛び込んできたのは、お茶を飲んでいる二人の姿であった。

「立派にたっている」のは、孫六の湯飲みの中の茶ばしらであった。

「英さんどうしたの。そんな大声だして」

お香が怪訝そうにいう。

正英は自分の大勘ちがいに赤面し、

「いやちょっと夢をみてまして、そうだ、これは、夢でござる。夢でなくてなんであろうか。徳川の世は、今このとき盤石になり申した。これは夢だ。夢だ夢だゆめぇでござる」

と意味不明のことをわめきだした。

お香と孫六は、正英のうろたえぶりに笑い、良之介は、

(チェッ、茶ばしらだったのか。興奮して損した)

と相変わらずの下半身に人格のない性分で残念がりながら、表面的には今目覚めたようなさわやかな顔で起き上がった。

以下149に続く

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2007年6月19日 (火)

琵琶湖伝147「史上最大の噴出」

琵琶湖伝147「史上最大の噴出」

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(あれは、関ヶ原で石田三成の本陣に本多家騎馬隊が、総攻撃をかけたときだ)

孫六様は手綱を持たず、脚のみで牛みたいな姿勢で馬を駆けさせていた。
それで忠勝様に孫六様がおかしいと呼びかけたな。

(似ている、今の状況も孫六様はまるで牛だ。あのとき、忠勝様はどう対応されたのか。たしかすぐに孫六様は正気に戻られたはず)

正英は必死で「あのとき」の二年前の記憶をたぐりよせていた。

「殿、孫六様が、井伊から帰ってきたあと、モーモー言い続けてい

ますが」
というと

「井伊に毒でも飲まされたか」
と忠勝様は正面を見ながらいったな。

そして忠勝様は何をされたのであったか・・・・・・・。

思い出した。

左側面を走る孫六様にむかい、左手一本で槍を振り上げ、振り下ろし、孫六様の頭から「グッシャ」と鈍い音がするほど、槍の柄で孫六様の後頭部をぶち叩いたのだ。

孫六様はガクリと馬の首に頭をもたれ動かなくなって頭蓋骨が砕かれ死んだのではと思った瞬間、「アーッ、気持ちいい」といいながら、背を起こし手綱をガッシリと握られ、普通の状態に戻られた・・・・・・・のだ。

正英は囲炉裏にかかっている鉄瓶を手にした。

囲炉裏に火ははいっておらず、鉄瓶はズシリと重たい中にひんやりとした感触を正英に与えた。

孫六牛は挙げてい手を下ろし板間に四つんばいとなり進みながら、好色そうないや発情したような眼でお香を見る。

お香は恐怖のあまり凝然となり、

「さっきの木曾固めのこと、ごめんなさい。孫六ちゃん許して」

と震える声でいう。

孫六はさらによだれを大量に垂らしながらお香の背後にまわる。

牛となりし孫六は、背後からの交尾をしかけようとしているのだ。

お香危うし。

その刹那、正英の電瞬一撃の鉄瓶が、孫六の後頭部にむかい振り下ろされた。

「カキィーン」

「グシャッ」

金属音と頭蓋骨がつぶれるような鈍い音が同時に部屋に響いた。

孫六はゆるやかに体を崩れ落とし、うつ伏せに板間に倒れた。

孫六はそのまま動かなくなる。

周囲のものは頭蓋骨が砕かれたかと孫六の命を危ぶむ。

「英さん、いくら私が襲われかけたっていっても、やり過ぎ」

お香は正英をみつめながら不安げにいう。

良之介と十蔵はお香に同調するように頷く。

正英はじっと倒れた孫六の背中を見ている。

若干、間をおいて、孫六は「アーッ、気持ちいい」といいながら背を起こし立ち上がった。
正英の強烈な一撃は、孫六の脳内に衝撃を与え、地震波にも似た振動が脳内を駆け、最終的に視床下部に達した時、そこに巣食ったものを破砕したのである。孫六は、牛から人間に戻ったのだ。

孫六は晴れやかな笑顔を皆にふりまく。

まさに関ヶ原の再現。

正英は己の決断に満足した。

ただし正英には思いもよらない違いが、関ヶ原の孫六と二年後のここ有田屋の孫六とにはあったのだ。

関ヶ原では孫六の脳内視床下部に巣食った牛の瞳を破砕したのであるが、今回の場合、牛の瞳ともうひとつ「尻」を粉砕したのである。

尻を・・・・・・尻を・・・・・・。

「キィーィ」

突如、孫六はバルタン星人のように両手の指でVサインを作り、そのVサインを両耳に持っていくと首をガクガク震わせ、白目をむきながら悲鳴を上げたのである。

それと同時に口や鼻のみならず、孫六の毛穴を含めた全身の穴という穴から、視床下部で粉砕された牛の「おなら」が、噴出する。

シュワァー、ブリブリブー。

すさまじい音とともに人類史上最大のおならがマッハの速さで飛び出し、まさにそれは、大量の臭素の毒ガスであった。

一瞬のうちに孫六を含めた全員が失神したのである。

以下148に続く

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2007年6月17日 (日)

第二部琵琶湖決戦編146「孫六そしてふたたび」

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第二部琵琶湖決戦編146「孫六そしてふたたび」
誰が敵の間者(かんじゃ スパイのこと)なのか」
孫六は深刻な顔をして首をひねった。
孫六があやまり、お香も落ち着き一件落着となったのち、話題は自然に、あかつき峠と草津の街道で待ち伏せを受けた謎についてのことになった。
正英は、甲賀伝兵衛が自分たちの名をしっていたこと、そして高西暗報と名乗った男もあきらかに正英と良之介の顔を知っていたとしか思えない攻撃を仕掛けてきたことを話したのだ。
孫六は己の推理を披露した。
「正英と良之介が間者でないことは当然だし、お香も恐らく違う。十蔵はわし以外の本多家のもののことなど知らんし、正英らの彦根際潜入を知っているのはわしと忠勝様と梶金平様だけだ。
涼単寺の偵察にいってる与平と勘太は、彦根潜入の件はお前らを助けるまでなにも知らなかったしな。お前らの顔や名前まで知っているとなると、忠勝様は当然違うし、とすると残るのは一人、梶様だ。はぁ、悲しいのう。あの梶様が井伊の手先だったとは」
つらそうに結論を述べた。
すぐに正英が反論する。
「もしここに梶様がいたら、あの孫六が井伊の手先だったとはと嘆かれるはず。孫六様の推理は推理になっていないのでは」
「正英、わしが井伊家の間者というか。聞き捨てならんぞ。取り消せ」
「そんな滅相もない。お怒りならあやまりますが、私と良之介がともに行動していること、そして我らの顔もしっているとなると、そして忠勝様ではないとすると」
「確かにな、そうなると俺か梶様だな。もしかして俺かもしれん」
あまりに真剣な表情を孫六がしたので良之介が心配する。
「孫六様、我らと同じように桑名にも井伊家の情報組織が潜入していて、そこがさまざまな情報を彦根に送っているかもしれませんよ。孫六様も冗談きつすぎ」
「良之介ありがとな。でも俺か梶様なんだもん。なんだも・・・・・・もー」
「まぁ、もーなんて、孫六様って牛みたい」
お香が笑いながら孫六に声をかけた。
孫六も、
「牛みたいか、牛か、フーン、牛か」
と口元を緩めながら応えたが、そのまま表情が固まってしまった。
まばたきもせず、じっと虚空をみつめる孫六の様子に皆が怪訝な表情をする。
傍らの一歩十蔵
「いかがなされました」
と問いかけるや、一歩十蔵のほうに孫六は首をかたむけ、音がでるような大きな瞬きをし、その後ゆっくりと眼を閉じた。
全員が、
「孫六様」
と問いかけたとき、孫六の口から信じられない言葉が出たのだ。
孫六は眼を開くや、
「モォーッ」
と力強く鳴いたのである。
「お気を、確かに」
良之介が孫六を案ずる言葉を吐くや、
「モォーッ」
とさらに叫びながら孫六は立ち上がり、両腕を一直線に天に向かって伸ばし、耳につけた。
そうその姿は二年前の九月、あの関ヶ原の戦いで井伊直政の陣に行った折、直政のあまりに衝撃的な赤色から幼時の牛殺しの大罪を思い出し(琵琶湖伝第一部関ケ原激闘編17、18参照)その牛の瞳が、孫六の脳内をすさまじいスピードで駆け巡り、間脳の視床下部に達し、ホメオスタシス(体内の状態を一定に保つこと)に異常反応を引き起こした現象の再来であった。
お香が何気なくいった、
孫六様牛みたい」
の一言が繊細な孫六の神経を刺激し、牛化現象を引き起こしたのだ。
四十数年間も意識の底に眠らせていた牛殺しの原罪を贖うため、身を畜生界にまたもや落としてしまったのだ。
天に向かって伸ばした両の腕は、牛の角の具現化であった。
「落ち着かれよ、落ち着かれよ、孫六殿」
井原正英は心からの気遣いをする。
お香は、
「孫六様かわいいよ、牛ちゃん、牛ちゃん」
と孫六牛に近づき、孫六のお尻をなでる。
何たる偶然。
幼き孫六が牛のお尻をなでたことで、牛は断崖から落ちたのであった。
お香の行為は、孫六の脳内を類似体験による刺激によってさらに活性化させ、孫六の視床下部は、牛の瞳だけでなく牛の尻にも占拠されたのだ。
まさにウンのつき。
哀れ、哀れ、哀れ、哀れ、哀れ好漢、雑賀孫六よ。
尻をプリプリと回しながら、よだれをたらしだし、瞳が膨れて拡大し、眼からこぼれ落ちそうになっているのだ。
その情景に、良之介と一歩十蔵は腰を抜かした。
お香は・・・・・・ちょっぴり漏らしてしまう。
騒然たる板間の中で一人冷静に孫六を見つめる男がいた。
井原正英である。
正英はこの光景と似たものを思い出そうと懸命になっていた。
以下147に続く

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2007年6月15日 (金)

琵琶湖伝145「お香怒りの木曾固め」

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琵琶湖伝145「お香怒りの木曾固め」
良之介は泣きそうな声になり、
「孫六様それはないですよ。私らはあのあとも殺されかけたんですよ。井伊家の眼を私らに向けさせ、そのあいだに彦根にはいってここで寝転んでいたのですか。わたしらは情報を得るための道具ですか。人間は人生ゲームのアイテムではないのですよ。孫六様がまわすルーレットで平社員に戻ったり、大金持ちになったりするんですか。わたしらは腹話術の人形なんですか。ひどい、ひどすぎますよ」
と孫六につめよる。
「何だお前は。わしに意見など千年早いぞ」
うるさいとばかりに、孫六が良之介の顔面を殴ろうと腕を伸ばすと、その手首を握られ、孫六は座ったままの姿勢で一回転し、うつ伏せになった。
そのまま孫六の手の甲を自分のわき腹で体重を掛けて押さえつけた。
押さえつけたのはお香である。
甲賀流の名手、戸沢白雲斎直伝の柔法「木曾固め」という技で、この技が決まれば木曾山脈にのしかかられたように、技を掛けられた者は身動きができなくなるのである。
「いたーぃ」
孫六が叫んだ。
お香は孫六の悲鳴など気にもとめず、相手の腕が曲がらないように自分の左手の拇指丘を使って相手の手首を十分に捻り、さらに
、相手の肩が浮かないようにきっちりと押さえつけ、首、肘、肩を閂をおろすように固めた。
さすがの孫六も突然の攻撃に、己の関節をはずして逃げようとする暇がなかったのだ。
「本当に痛い。ぶ、ぶ、無礼者。わしは雑賀衆棟梁雑賀家の直系ぞ。ぶわぁあかものめ、今なら許してやる、技をはずせ」
孫六はさらにわめく。
「うるせぇんだよ、このすっとこどっこい。何が雑賀衆だ。こちとらは、琵琶湖の水で産湯を使ったチャキチャキの堅田っ子よ。それも堅田衆総代の家だ。このバカ野郎のおたんこなす、われ、もっとしばいたろうか」
お香はさらに力をいれた。
「痛い痛い、いたーい」
孫六はあまりの痛みに泣き出しそうだ。
すでに船上で指人形で遊んでいたお香の姿はない。
今までのお香の言動もどちらかというと男勝りといえたが、今眼前のお香の悪口雑言は男そのもので、良之介は愕然とし、正英は病気がまたでたという顔をした。

「娘さんやりすぎだ」
一歩十蔵がお香の肩に手をかけた瞬間、十蔵の体はゴロリと板間を回転しながら土間に落ちた。
今度は堅田水舟拳奥義のひとつ「真空投げ」を放ったのだ。
正英は、板間に顔を押しつけられてしまった孫六の耳元で、
「反省します。みなさんをおとりにして、ごめんなさいといわないともっと恐ろしいことが」
とささやく。
「ウー、わかった。ごめんちゃい、許してください」
無念そうに孫六がつぶやいた。

以下146に続く

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2007年6月13日 (水)

琵琶湖伝144「一歩十蔵」

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琵琶湖伝144「一歩十蔵」
「そっちのいい女は誰だ。わしに酌をせい」
三人は笑いながら板間に上がると、囲炉裏を囲んで座った。
「孫六様、酌も何もこれは白湯では」
正英が孫六の傍らに置かれた茶碗の臭いをかいだ。
「なにぃ、酒ではなかったか。しゃくにさわった、もう酌はよいぞ釈由美子」
おやじギャグらしきものを孫六がいい、良之介が付き合いで大笑いしたが、それまでであり、一歩十蔵も上がってきて孫六の隣に座った。
「お待ちしておりました。外からの声で孫六様がすぐにおわかりになり、誰もいないなどと妙なことをおっしゃられて」
十蔵は、孫六に対してかなり遠慮した物言いをした。
「十蔵、そう遠慮した物言いをするな。わしの家来であったのは雑賀の時代だろ。もう十七,八年前のことだ。みんな、一歩十蔵だ、よろしくな。秀吉の雑賀攻めで雑賀衆はバラバラになって、その後いろいろあったようだが、彦根に落ち着いてもう十年以上居酒屋をしながら生きてきたのだ。一日に二百キロ歩く男よ。この男の一歩は普通の人間の十倍はあるところから、一歩十蔵と呼ばれるようになった。この男とわしのつながりは今日まで誰も知らない。信楽衆の槍に倒れたあの弥助もな。三成存命の噂を教えてくれたのは、実はこの男だ。弥助が死んだ今、しばらく、わしのために動いてくれることになった」
孫六がそう言うと、
「さっき軽くいいましたが一歩十蔵です、よろしく」
と十蔵がみんなに愛想よく礼をした。
正英らも、孫六の雑賀時代からの知り合いでこれからの仕事に協力してくれる十像に敬意を表し、丁重な挨拶をした。
そのあとで正英が不思議そうな顔でいった。
「なぜ孫六様がここにいるので」
良之介も己のひざを叩いて、
(なぜ)

といった顔で孫六をみた。
「芝居だよ芝居。作戦なんだよ。お前らを利用してわしらがのんびり彦根に入るためのな」
孫六が大声でうれしそうに答えた。
「私たちはおとりだったのですか」
良之介がいう。
「イエース。あのあかつき峠に行ったのは、お前らを救う目的もあったが、井伊家はおまえらのことしか頭にないからな。デカイのと小さいの、目立つよな。いやー、わしとあの時いた与平と勘太は、誰にも気づかれずに彦根に堂々とはいれてな。与平と勘太はもう
涼単寺の偵察にいってるよ。お前らのおかげで仕事がはかどった。隠密活動でこれほど気楽に相手方にはいれたのは初めてだよ。本当にアリガトサーン」
「そんな、わたしらをおとりにしたなんて」
「もうしつこいな、良之介は。もう一度いうぞ。お前と正英はおとりにしたの、おんどりめんどり、こうのとり、にわとり、かとり、とっとり・・・・・・おとりだぁ、ハハハハッ」
「しゃく酌」のギャグに付き合って笑った良之介も、今度は笑わなかった。
以下145に続く
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2007年6月12日 (火)

琵琶湖伝143「彦根潜入なぜか孫六」

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琵琶湖伝143「彦根潜入なぜか孫六」

出航の前、岡本邦源が琵琶湖の水鳥を無数に呼び寄せる技を見せ、旅立ちを祝すと、お香がお返しに指笛を吹く。

すると翼を拡げた幅が十メートルもあろうかと思われる大鷲があらわれ、皆を驚かせた。

脚も太く、人間が乗ったり脚につかまったり、十分できるくらいの「大物」である。

再度、お香が指笛を鳴らすと大鷲は北の空に飛んでいった。

堅田水舟拳の技に大鷲を呼ぶものはない。

水鳥を呼ぶ堅田水舟拳の技を、お香が戸沢白雲斎の下で改良した結果生まれたものである。

岡本邦源は娘の技に満足したあと出航の合図をし、船は朝焼けの湖にでてゆく。

彦根に着くまでの間、お香は暇をつぶすためか両手の人差し指に指人形をはめ、右手に女の子、左手に男の子で、

「英ちゃーん、ごはんでちゅう」

「はーいお香ちゃん、おなかへりました」

と一人おままごとをしていた。

井原正英はその姿を見て、可愛いと思い、市来良之介は、

(ウー、セクシィ。やりたい、一〇一人目の女にしたい)

と欲情をもよおしたが、正英がそれに気づいて良之介の下半身に点欠をして、彦根に着くまで解かなかった。

邦源の「かお」はたいしたもので、彦根藩の船役人は邦源の言うとおりに、娘のお香とその用心棒と小者に気楽に彦根の土を踏ませたのである。

正英は、再度彦根潜入の命を受けて出発する翌朝、雑賀孫六が己に渡した地図とそこに書いてある有田屋一歩十蔵(いっぽじゅうぞう)という文字を確認し、それからお香に見せた。
お香は、彦根には幼いころから遊びに来ていて詳しく、すぐに有田屋を探し当てる。
有田屋はまあまあの大きさの居酒屋であったが、戸が閉まっていて「本日休業」の札がかかっていた。
入り口の戸を叩いたが、何の応答もない。
「一歩という方はいませんか」
もう一度、戸を叩きながら呼びかけると、中から声がした。、
「誰もいませんよ」
正英が良之介を見て、
「いないといってるな」
というと、
「そうですね。また来ましょうか」
といい二人は有田屋から去りかけた。
「あんたたち、頭おかしくない」
お香が怒鳴った。
「いないといってる人がいるでしょ」
「アッ」「そうか」
「やっぱり頭がいいよね」
二人はお香をほめたが、

(
あんたたちが頭悪すぎ)
とお香は思うだけである。
店の戸が開き、三五、六の男が顔をだした。
眉毛が垂れて笑ったような顔をしている。
三人をみつめ、手招きした。
三人が戸をくぐって店に入ると、すぐに戸は閉められた。
「この有田屋の主人安吉と申しますが、ある方は私のことを
一歩十蔵と呼びます」
と男はいった。
「ある方とはわしのことだぞ」
一段高いところにある小窓からさす光で、奥にある囲炉裏のある板張りの部屋が見える。
声はそこからである。
正英と良之介はどこかで聞き覚えのある声と感じて、そちらを見ると、肘を枕に寝ている男がいる。
男はゆっくり起き上がり、
「わしが分からぬか」
という。
雑賀孫六であった。
以下144に続く

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2007年6月 9日 (土)

琵琶湖伝142「雪の中の半蔵」

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琵琶湖伝142「雪の中の半蔵」

「二月の寒い日だった。小雪が舞いだしてきて。邦長は地面に頭を垂れ、許してくれと繰り返し、わしは早まるでない、お前のことは命に代えてわしが守るといった・・・・・・私も十五歳、男なら元服の年。武術の技をさらに磨くために武者修行の旅にでるだけ。父上が昔、修行し今も交流のある信州の戸沢白雲斎様の元に参ります。ご心配なく・・・・・・と小船の櫓をこぎ始めながら言ったよ。力づくで戻しても良かったのだが、お香自身が己の定めを受け止めた上での船出なら、その船のへさきをいずこに向けるかはお香の勝手。わしに船のへさきを変えさせる権利はない。いってこいと笑って、手を振った。雪の中にお香の船は消えていったよ」

「伊賀はどう動いたのですか」

「それが、そのあと伊賀からは何の音沙汰もない。だから戸沢様のところに食料や厄介賃として些少の金も持って行くたびに、お香に堅田に戻らぬかと勧めたが、そのたびに、絶対に戻るのでそれまで自分のわがままを許してくださいと申して、戸沢様が亡くなられたあとは、所在不明だ。たまに手紙が来て、おぬしの名もよく出てきて、調べさせてもらったら、なかなかの男だ。お香にもおぬしにも会いたかったぞ」

「私への心遣いありがとうございます。しかし伊賀はなぜに」

「分からぬがそのままもう七年だ。考える必要もないことは考えぬことにしているのでな」

「そうですね。しかし服部半蔵様も罪なことを」

正英が半蔵への繰り言をいったとき、

「父さん、英さん。こんなところで何してるの。もう船がでるわよ」

と迎えにきたお香の声がする。

すでに朝日が昇りかけている。

お香が信州に去ったその日の夜、堅田ではまだ雪が降っていた。

破れ合羽を着た四十がらみの男が、岡本邦源の家の黒塀まで来ると、急に姿を消した。

黒塀を飛び越え音も立てずに庭の前の石畳に降りた男は、

「許してもらえるはずがない。来るべきではなかったか」

とつぶやいた。

雪明りの中、木戸を開けると桟に積もっていた雪が落ちる.

男は、その雪にたじろいだ。

庭に入ると、灯が映る向こうの窓の障子に人の影を見える。

男はその影に深々と礼をした。

「情けをかけていただいたご恩を忘れ、調子にのり、思い上がったことを家臣に言わせてしまいました。どうぞお許しください。馬鹿なやつは最後まで馬鹿をするのです」

男はそういうと、またもときた道を帰っていった。

男は服部半蔵である。

喜市包厳から報告を受けたあとで自分の愚かさに気づいたのである。

堅田にいっても話を混乱させるだけで、お香に自分の姿を見せる必要はないと分かっていながら、堅田まで一人来たのだ。

あやまるべきであるが、なにもなかったことにすべきかも知れない。

木戸から落ちた雪が、一瞬の間を与え、半蔵の精神を正常なる方向に向かわせていった。

服部半蔵はすでにお香が岡本家を去っていることを知らない。

そして服部半蔵が雪の中を堅田まで来たことも、岡本邦源の家の庭で頭を下げたことも、誰も知らない。

しかしそれ以降、お香が実の娘であることを、半蔵が口に出すことは二度となかったのである。

以下143に続く

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2007年6月 6日 (水)

琵琶湖伝141「お香の義侠」

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琵琶湖伝141「お香の義侠」

「邦源様、大切に育てられたお香さんが、なぜここ数年家に戻っていなかったのですか」

恐る恐る、前から疑問に思っていたことを問う。

「うん・・・・・・」

邦源の声の響きがなんとなく寂しそうに聞こえた。

「ご無理だったら」

「いや、案ずる必要はない。わしもお香が諸国を旅して生きるようになった理由を教えるために呼んだようなものだ。お香が十五歳になったとき、喜市包厳が半蔵の手紙をもってまた訪ねてきたのだ」

「約束が違いますよね」

「そうだ。一応、会って半蔵の手紙を読んだが、お香を娘とすることに反対した正妻が一昨年死に、服部家に戻すための障害もなくなり、自分自身も家康公のもとで確固たる地位を築き、伊賀者総支配として天下に名を知られる存在となった。虫の良い話だが、お香を服部家から嫁として出してやりたいという思いが日ごとにつのり、約束を破ることは承知の上で手紙を書いた。ぜひ、この忍者者の心を汲み取ってもらえまいか、というものだった」

正英は湖面に向かいはきすてるように、

「服部様はまちがっている」

といった。

「邦源様、じつは私は、生まれたときに母が死に父も四歳のときに。それからは養父母に育てられ、養父母を実の父や母と思っております。それは、お香さんも同じ。それに半蔵様は、捨てたも同然の仕打ちをしたのですよ。よくそんなことが邦源様にいえたものですね」

正英は、怒りを覚え、あの関ヶ原のとき、たびたび家康のもとに戦況を伝えにきた、半蔵の顔を思い出し、憎たらしくなった。

「わしも怒ってな。喜市にお香は絶対に渡すさんと半蔵にいえというてやった。すると喜市は伊賀を敵にまわしたいのかというたわ・・・・・あとは「来るならこいや」「おうそうか、吐いたツバ飲むなよ」と、もう喧嘩だ。すでに見事なハゲになっていたが、つるつる頭から湯気を立てて、喜市は伊賀に帰ったよ」

「まさかお香さんは、その話をきいたのですか」

「いや、お香は聞かなかったが、息子の邦長が、堅田と伊賀の争いになることを心配したのか、その日のうちにお香にすべてを話し、父邦源のために伊賀に戻ってくれぬかと、頼んだそうだ」

「邦長さんもひどいことを」

「次の日の朝早く、邦長がわしのところに来て、悪鬼のようなことを愛する妹にいってしまった。あやまりたいが、一緒についてきてほしいと情けないことをいったわ。邦長を殴ってから、二人でお香の部屋にいくと、お香がいない。まさかと船着き場にいくとお香が小船を出すところであった」

すでに湖面からは闇が消え去り、空は薄桃色に変わりつつある。

正英は、お香と同じ立場に置かれれば、やはり自分もふるさとを出て行くだろうと考えた。

実の父親は一人である。

お香にとってそれは邦源であり、半蔵ではない。

ならば堅田のため伊賀に戻るのか。

それは邦源の誇りを傷つけるものである。

娘を犠牲にしてまで生きようなどと考える父親がいるはずがない。

ならばこのまま堅田に残るのか。

それでは、堅田全体の「父」でもある邦源に堅田を戦乱に巻き込ませる責任を負わせることになる。

答えはひとつ。堅田をお香が出てゆくしかない。

それは情けをかけてもらった者への礼儀だし、実の父親というべき者の危難を救うのが「義理」を果たす最善の方法であろう。

場合によっては、己をこの世から消し去っても悔いはない。

「義侠とは愛着の断念である」と見田宗介氏は喝破したが、家族への愛着を捨て、愛する人への思いを断ち切り、その果てには死をも辞さない激烈たる倫理性こそが、人間を人間足らしめるのだ。

四年前にふらりと大多喜へ現れたお香がなぜ年の離れた自分と波長があうのか、その理由が分かったように正英には思えた。

以下142に続く

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2007年6月 5日 (火)

琵琶湖伝百四十「岡本お香伝」

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琵琶湖伝百四十「岡本お香伝」

岡本邦源は話を続けた。

その話は長くなるので話の前半を要約する。

お香は伊賀の国の頭領格の家である服部半蔵の子である。

妾腹に生ませたのだが、産後の肥立ちが悪く、お香の母親はお香を生んですぐに死んだという。

半蔵は、お香を服部家の娘として当然育てようとしたのだが、正妻の反対にあい、里子にだすことにした。

半蔵はお香をもらってくれる家を探すが、伊賀の国の住人にはいくら半蔵の頼みでも、

(今はそれどころではない)

事情があった。

お香の生まれた一五八〇年は、その前年より織田信長が伊賀を支配下におこうと躍起になり、次の八一年には、信長の大軍勢が押し寄せ伊賀全土が焦土と化した「天正伊賀の乱(一五八一年九月、信長は天下布武の旗印のもと、伊賀を徹底的に殲滅する作戦に出た。信雄を総大将に丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷ら錚々たる面々と数万の大軍を周囲六道から一斉に攻め込ませた。迎え撃つ伊賀勢は約九千、あっという間に伊賀各地の神社仏閣や城砦は焼き払われた。伊賀勢はほぼ全滅に近い打撃を受けた)」が起きるという、まさに伊賀にとって危急存亡の時代であったのだ。

いずれにせよ赤子のお香を伊賀に置くこと自体、「半蔵」の娘であるお香の命を危険にさらすことになる。

ではどうするかに悩んだ半蔵は、思い切って武術の修行にしばしば伊賀を訪れていた、近江堅田の岡本邦源に頼むことにし、腹心の喜市包厳にお香を託し己の手紙を添えて堅田に向かわせる。

ここまで淡々と話していた邦源は、急に口元を緩ませた。

「この喜市包厳というものは異常に髪の毛が細いおとこでな。わしは半蔵の手紙を読み、虫の良いことを言ってきたなと思ったのだが、嫁をもらって十年以上経つのに子供は八歳になる邦長(くになが)しかできず、赤子のけがれのない顔をみているうちに、これも何かの縁かと考えだしてな。「もらっていただければ、服部家とお香とは以後何の関係もない」という半蔵の手紙の文面を信じて、お香をわが子とすることに決めたのだ。喜市は、織田家の軍事的圧迫を受けている伊賀の窮状を述べて、伊賀においていては確実に織田方に狙われる子をお助けいただき、主人半蔵に代わって感謝いたしますと涙を流して喜び帰っていったよ。ただ其の時、強風が吹いて、パラパラッと喜市の髪の毛が抜け落ちて百本ほどはるか彼方に飛んでいったのには、もうおかしくておかしくて、泣きながら帰っていく者を笑うわけにもいかず、姿が見えなくなるまで我慢して、あとは家中のものと大笑いした。わしが抱きかかえていたお香も笑っているようだった。傍らにいた、お香が十二歳のときに死んだ妻が、人差し指でお香のほっぺを軽くつつくと、眼を丸くしてわしらを見てな、其の時、堅田湖族衆総代にして堅田水舟拳の継承者たる岡本家の娘として、どこにだしても恥ずかしくない娘に育てようとかたく心に決めたのだ」

邦源は青白くなってきた湖面を見つめながら、自分の言葉に何度も頷いていた。

以下141に続く
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琵琶湖伝百四十「岡本お香伝」

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琵琶湖伝百四十「岡本お香伝」

岡本邦源は話を続けた。

その話は長くなるので話の前半を要約する。

お香は伊賀の国の頭領格の家である服部半蔵の子である。

妾腹に生ませたのだが、産後の肥立ちが悪く、お香の母親はお香を生んですぐに死んだという。

半蔵は、お香を服部家の娘として当然育てようとしたのだが、正妻の反対にあい、里子にだすことにした。

半蔵はお香をもらってくれる家を探すが、伊賀の国の住人にはいくら半蔵の頼みでも、

(今はそれどころではない)

事情があった。

お香の生まれた一五八〇年は、その前年より織田信長が伊賀を支配下におこうと躍起になり、次の八一年には、信長の大軍勢が押し寄せ伊賀全土が焦土と化した「天正伊賀の乱(一五八一年九月、信長は天下布武の旗印のもと、伊賀を徹底的に殲滅する作戦に出た。信雄を総大将に丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷ら錚々たる面々と数万の大軍を周囲六道から一斉に攻め込ませた。迎え撃つ伊賀勢は約九千、あっという間に伊賀各地の神社仏閣や城砦は焼き払われた。伊賀勢はほぼ全滅に近い打撃を受けた)」が起きるという、まさに伊賀にとって危急存亡の時代であったのだ。

いずれにせよ赤子のお香を伊賀に置くこと自体、「半蔵」の娘であるお香の命を危険にさらすことになる。

ではどうするかに悩んだ半蔵は、思い切って武術の修行にしばしば伊賀を訪れていた、近江堅田の岡本邦源に頼むことにし、腹心の喜市包厳にお香を託し己の手紙を添えて堅田に向かわせる。

ここまで淡々と話していた邦源は、急に口元を緩ませた。

「この喜市包厳というものは異常に髪の毛が細いおとこでな。わしは半蔵の手紙を読み、虫の良いことを言ってきたなと思ったのだが、嫁をもらって十年以上経つのに子供は八歳になる邦長(くになが)しかできず、赤子のけがれのない顔をみているうちに、これも何かの縁かと考えだしてな。「もらっていただければ、服部家とお香とは以後何の関係もない」という半蔵の手紙の文面を信じて、お香をわが子とすることに決めたのだ。喜市は、織田家の軍事的圧迫を受けている伊賀の窮状を述べて、伊賀においていては確実に織田方に狙われる子をお助けいただき、主人半蔵に代わって感謝いたしますと涙を流して喜び帰っていったよ。ただ其の時、強風が吹いて、パラパラッと喜市の髪の毛が抜け落ちて百本ほどはるか彼方に飛んでいったのには、もうおかしくておかしくて、泣きながら帰っていく者を笑うわけにもいかず、姿が見えなくなるまで我慢して、あとは家中のものと大笑いした。わしが抱きかかえていたお香も笑っているようだった。傍らにいた、お香が十二歳のときに死んだ妻が、人差し指でお香のほっぺを軽くつつくと、眼を丸くしてわしらを見てな、其の時、堅田湖族衆総代にして堅田水舟拳の継承者たる岡本家の娘として、どこにだしても恥ずかしくない娘に育てようとかたく心に決めたのだ」

邦源は青白くなってきた湖面を見つめながら、自分の言葉に何度も頷いていた。

以下141に続く

2007年6月 3日 (日)

琵琶湖伝百三十九「邦源との対話」

琵琶湖伝百三十九「邦源との対話」

明治から昭和の初期を生きた作家近松秋江(ちかまつしゅうこう)は、大正八年(一九一九年)の随筆「湖光島影」の中で、堅田の浮御堂についてその近くの船着き場の桟橋から眺めた光景をこう述べている。

「浮御堂は、その棧橋を渡りながら右手の方の汀から架け出してあるのが見えている。緑の濃い松が數株そのまはりの汀に立つている。芭蕉は、

錠あけて月さし入れよ浮御堂

 と詠んでいる。叡山横川の恵心僧都の創建で海門山滿月寺といつているのは、ふさはしい名である。中には千体阿弥陀仏を安置してある。やがて船が着いて私はやつと湖上に浮ぶことが出來た」

この文章から三百年前、近松秋江が琵琶湖にでた同じ堅田の船着き場から、一艘の船が早朝の出発をめざし準備を進めていた。

その「右手の方の汀」にある浮御堂の回り廊下に腰を下ろし、黒洞洞たる夜の世界から青く光る世界にかわりつつある湖面を見つめる二人の影があった。

一人は岡本邦源、一人は井原正英である。

きのうの夜、岡本邸を訪れた正英と良之介は、邦源のもてなしで良之介は、大いに飲み食べ、下戸の正英は大いに食べた。

途中からお香も宴席に加わり、さらににぎわう。

邦源は良之介を正英と誤解したことで、正英にすまなく思い、彦根潜入という正英の願いをかなえるため、翌朝彦根行きの船を出すことを約した。

夕方までに彦根に運べばよい荷があり、その船を早めに出すことにした。

武術に自信のあるお香も正英らと行動をともにするといいだす。

ならば、

「娘が大垣に遊び行きたいと申すので、用心棒の男と荷物運びの小者をつけましたと彦根に着いたら井伊家の船係りいおう。あとは袖の下をいくらかかがせればよい」

と邦源が案をだした。

正英も良之介もその案に感謝し、翌日に備えて宴席はお開きになった。

朝五時には起き、旅支度を二人がしていると、使いのものが来て、

「邦源様が、正英様と少し話がしたいので、浮御堂でお待ちになっております」

とのこと。

正英は、良之介にあとで会おうといい、旅支度をして浮御堂にむかうと、湖面に足を出しながら浮御堂の回り廊下に座っている岡本邦源がいた。

「わしは武術の修行が若いころから大好きでな」

「それは私も」

「うん、お香から聞いたが相当な使い手らしいな。なんせ本多忠勝様の一の弟子にして、戸沢白雲斎様からも技を伝授されたものなどそうはいない」

「それでいえばお香さんも。岡本邦源様と戸沢白雲斎様から」

「いや、わしは本多様ほどの技はないぞ」

岡本邦源の言葉は、正英には謙遜にしか聞こえなかった。

昨夜体験した琵琶湖激誘波だけでも、忠勝様でも勝てないだろうと正英に思わせるには充分なものであった。

「別に武術自慢のために出立の前に正英殿を呼んだのではない。本題を言おう。絶対に知ってもらいたいことがあってな」

そこで一呼吸置き、

「お香はわしの実の子供ではないのだ」

といった。

邦源の口調は、この夜明け前の静寂のなかに溶け込むような、穏やかなものである。

事柄の重大さと口調の落差が正英をとまどわせ、

「いま何とおっしゃられましたので」

と聞き返させていた。

以下百四十に続く

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2007年6月 1日 (金)

琵琶湖伝百三十八「琵琶湖激誘波」

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琵琶湖伝百三十八「琵琶湖激誘波」

石畳を抜けると木戸があり、木戸を開けて中にはいると季節のもみじの木が数本、やや大き目の石灯籠からこぼれる明かりに照らされて、何ともいえぬ趣ある赤の色をだしている。

「だんな様」

門番が声をかける。

「あとはわしが、やるから」

声をかけられた男がいい、門番は帰っていった。

その主人らしき男は、背は正英と同じ百六十センチほどだが、筋肉質で贅肉などない体つきである。

おそらく岡本邦源であろう。

お香から六十歳と聞いていたが、頭髪にはたしかに白髪がまじっているものの、とてもそんな年とは思えない若々しさである。

顔は丸顔でどちらかといえば愛嬌のある顔だが、ただ、日に焼けた顔のなかに鋭く光る眼は、いかにも堅田の湖水を守る男だという印象を人に与えるものであった。

正英と良之介が挨拶をしかけると、その男はおもむろに両腕を胸の前で交差し、

なにやら呪文のようなものをつぶやくと、両腕を前に突き出した。

その刹那、男の背後からすさまじい量の水が湧き上がり、男を越え、正英と良之介に襲いかかった。

「うわぁ」

突如、洪水のごとき水に襲われ、現実を超えたそのシュールな技に二人は立ちすくみ、眼を閉じて恐怖の声を挙げるしかなかった。

「どうぞ眼をあけてくだされ」

男の言うがままに二人は眼をあけた。

さっきと変わらぬ風景である。

「ちょっとイタズラが過ぎたかの」

狐につままれたような顔をする二人に、男は笑いながらいう。

「こわかったでちゅ」

「びっくりしちゃった」

正英と良之介は、突然の信じられない状況にどう応ずべきかわからなくなり、心理機制の果てに退行化現象を起こし、幼児化したのである。

「そうでちゅか。ごめんなちゃい。むちゅめの男にちょっと、むかついちゃったの」

付き合いのいいオヤジである。

二人の息が整ったのを見計らい、

「今のは、堅田水舟拳の技のひとつ琵琶湖激誘波(げきゆうは)。水が出たと思われたのは、わしの作った幻覚で、実際には何もない」

と男はいった。

琵琶湖激誘波は、洪水が襲うような幻覚を敵に見せ、今回は行っていないが本来の技は、その一方で幻覚に気をとられている敵に「気玉(きぎょく 体内の気を集めたすさまじいエネルギーをもつ見えない玉。空気中をはしり相手に致命的打撃をあたえる)」を発して、はるかかなたに吹き飛ばす技である。やられた相手は、波にさらわれていくような感覚を覚えることになる。

男は威儀をただすとさらに続けた。

「堅苦しい挨拶は苦手だが一応させてもらう。拙者は堅田湖族衆総代、岡本邦源。このたびは、娘お香を嫁にもらってくれるとのこと。井原正英殿、ふつつかものでござるがよろしくお願い申す」

岡本邦源は花嫁の父として、その身分や格式にこだわらず、正英に誠意をもって接したのだ。

しかし、どう考えても邦源が、

「娘をよろしく」

と丁重に挨拶しているのは、市来良之介のほうである。

(未来のおとうさん、僕のほうに言わないと)

微笑みながら、心でつぶやく正英であった。

以下百三十九に続く。

2007年5月30日 (水)

琵琶湖伝百三十七「堅田湖族衆」

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琵琶湖伝百三十七「堅田湖族衆」

才蔵が去って数時間。

午前四時の湖西を抜けてゆく街道を通る人影など、どこを見回してもあるはずがない。

ただ月の光が、草の波を銀色の海に見せるばかりである。

「オヒヨォッ」

うめくようになんとも言えぬ声を発しながら、闇の底からすっくと起き上がったものがいる。

高西暗報である。

立ちくらみでもしたのか、傍らの地蔵様の頭に手を置き、二三度頭を振る。

そのあと両手を挙げ深呼吸をし、

「こんな風にすぎていくのなら

いつかまたどこかで誰かに出会うだろう

何もかも隠してくれる

夜のとばりをくぐり抜ければ

今夜ほど寂しい夜はない

そうさ今夜は世界中が雨だろう」

浅川マキの「こんな風にすぎていくのなら」を口ずさみながら、まだおぼつかない足取りで、月明かりを頼りに唐崎にむかい歩きだした。

いったいこれは、どういうことなのか。

才蔵は、暗報の死を確かに確認したはずである。

なのに、なぜ。

それは才蔵の常識をはるかに越えた暗報の凄さと言うしかないことであった。

暗報は、立ちふさがる才蔵の腕を冷静に見極め、まともに戦えば分が悪いと判断し、東命寺派の奥義を極めた毒使いしか創ることができない、秘薬「黄泉参り(よみまいり)」を、心筋梗塞の発作の芝居をしながら倒れこんだ時に飲んだのである。

「黄泉参り」は瞬時に使った者を死に至らしめる。

ただし、数時間後にはその者を蘇生させる薬であり、まさに黄泉の国、あの世に行ってこの世に戻ってくることから、「黄泉参り」という名がついたのである。

その暗報が、山内記念と霧隠才蔵に連れられて青葉屋に戻ったのと同じ時刻に、井原正英と市来良之介は近江堅田(滋賀県大

大津市

堅田)に入っていた。

堅田は琵琶湖最南部大津の近くでその両岸の幅の最も狭いところに位置する。、近江八景「堅田落雁」 で知られる浮御堂は現在でも有名な景勝地だが、古代から中世と、その位置的優位性から、湖上交通の要衝として栄えていく。
中世以後堅田荘には「堅田三方」(後に一つ増加して「堅田四方」となる)三つの
組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる「堅田衆」による自治が行われており、「堅田湖族」とも呼ばれてもいた。殿原衆は堅田の水上交通に従事して堅田船と呼ばれる船団を保有して、時には海賊行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、堅田衆の指導的な地位を確保していた。一方、全人衆の中には商工業によって富を得るものも多く、殿原衆との共存関係を築いてきた。
堅田衆は戦国時代の後期には、近江を支配した織田信長、そのあとの秀吉の支配のもとで中世ほどの発展はなかったが、それでも徳川期になっても湖上交通の要衝として経済的な富は蓄積されていった。
一六一七年には、幕府が直轄地として大津代官所を設置し、堅田は大津代官に従属した。

正英と良之介は、堅田にはいったのは良いが、お香の家を知らず、お香の父が堅田水舟拳の使い手であるとともに堅田湖族衆総代という高い地位の人間であることを思い出し、夜遅くもあいている居酒屋や旅籠を聞き聞き、なんとか浮御堂の手前にあり、高い黒塀に囲まれた大きな家だとわかった。
浮御堂は堅田の湖中に浮かぶ御堂であり、約1,000年前に開かれたといわれる寺で、大津の代表的な景勝地である。}近江八景『堅田の落雁』で名高く、老松に調和して建つ浮御堂の姿は、実に風雅。
そのすぐ近くの岡本邸を目指し、民家の並ぶくねくねと蛇行した道を歩いていく。
茶店がまだあいていて、道の確認をすると、この道をまっすぐ行けば、岡本邸とのことである。
安心してそのまま行くと、黒塀が続く大きな家にたどり着いた。
入り口には提灯が掲げられ門番までいた。
ちょっとした大名の屋敷のような雰囲気である。
岡本様のご息女の知り合いと、門番に二人が、お香への取次ぎを頼むと、訝しそうな顔で屋敷に戻っていった。
戻ってきたときは、笑いながら、お香様の許嫁(いいなずけ)とはしらず失礼の段お許し願いたいといい、主人岡本邦源が一献差し上げたいと申しておりますからどうぞこちらへと、二人をさそった。
正英と良之介は、門番のあとについていく。
以下百三十八に続く

2007年5月28日 (月)

琵琶湖伝百三十六「秘薬 黄泉参り」

琵琶湖伝百三十六「秘薬 黄泉参り」

宮内平蔵を助けた者たちはいったい何者であったのか。

山内記念が聞いたところでは、平蔵を追う暗殺隊の前に十名の敵が立ちはだかり、大乱戦になったという。

その中で暗殺隊も三名が死んだが、邪魔にはいった敵を五名切り倒し、あとは逃げたが、一人が「植山」という言葉を死ぬ前に吐いた。

しびれ薬から覚め、通りにでてきた喜市包厳が、

「それは植山衆のことであろう」

と推測した。

植山衆とは、大化の改新以前から烏丸中将家に仕える暗殺集団であり、卍手裏剣を多用する。

現在の植山衆の頭領は、植山仁斎であった。

喜市の推測は当たっていた。

植山衆は、京都所司代が伊賀者を使い、烏丸中将家を監視していたように、京都所司代を見張っていたのである。

そしてただならぬ所司代の動きを見て、植山仁斎は急ぎの7ことで人数も集まらなかったがなんとか十名のものを集め、遅ればせながら暗殺隊のあとを追い、事に備えて近江屋近辺に待機していたのだ。

ちなみに宮内平蔵を馬で助けた者は、植山仁斎自身である。

この植山衆の参戦で一番得をしたのは、高西暗報であろう。

暗報は平蔵と逆の方向に逃げたのち、何の妨害も受けず、さきほど平蔵と部屋で最後に交わした「夜の雨に松」を求め、おち合い場所の唐崎神社を目指していた。

唐崎神社は大津宿を琵琶湖にむかい西に行けばすぐであり、日吉大社の摂社で、近江八景のひとつ「唐崎の夜雨(からさきのやう)」で知られる景勝地である。時代はこの琵琶湖伝第二部の一六〇二年よりあとになるが、松尾芭蕉が「唐崎の松は花より朧にて」と詠んだほど松で有名な神社であった。

雨もやみ、月も出てきた夜道を、その唐崎にむかい、軽い足取りで水溜りを避けながら暗報は歩いていく。

その月を背にして、暗報の正面に立つ人影があった。

暗報は立ち止まり、闇に覆われた顔に眼を凝らした。

その顔は、あの草津の街道で優しげな言葉で己を助けてくれた百姓のうち、万作という名の若者であった。

「おい、万作だったよな」

暗報は、気楽に声をかけた。

「わしはあまり心臓が強くないのだ。太りすぎでな。だからびっくりさせんでくれよ」

暗報は、突然に道をふさいで現れた若者に注意をするような口調である。

「俺の名は霧隠才蔵だ」

才蔵は、暗殺隊の植山衆との混乱の中で唯一、暗報の動きに気づき、追いつくことに成功したのだ。

「君はわしにウソをいったのか。わしはお前たちの情けに涙を流して喜んだのだぞ。それがすべて、わしに平蔵の居場所を教えさせるための芝居だったとは。おじさんの心を傷つけて、うれしいのか」

「何を意味不明な。おぬしらに殺された伊賀者の仇をここで討たせてもらうぞ。覚悟せい」

才蔵は、そういいながら、刀の柄に手をかけ、ツツツッと前進する。

「おぬしは、わしの心を傷つけたの・・・・・・・」

暗報は、同じことをまた言い出したが、呂律が回らなくなっている。

「オギュン、ニャオフンゥ・・・・・・」

何を言ってるのかわからぬまま、月光に照らされた暗報の顔は、青白く血の気が引いている。

そのまま心の臓のあたりを押さえてうずくまり、暗報は水溜りのなかに倒れこんだ。

才蔵は、芝居でもしているのかとしばらく、様子をうかがう。

身動きひとつしない。

用心深く背後にまわり、泥だらけになった暗報の顔を覗き見る。

瞳孔が開き、脈もみたがしていない。

明らかに心臓の発作に襲われ、才蔵が仇を打つ前に、絶命してしまったのだ。

才蔵は、

「フゥー」

と大きくため息をつき、暗報を抱えて近くの地蔵様の傍らに仰向けに寝かせた。

「南無阿弥陀仏」

運命のどうしようもない不思議さを感じながら、念仏を唱えると、暗報の亡骸から離れ、立ち去っていった。

以下百三十七に続く

2007年5月27日 (日)

琵琶湖伝百三十五「山内記念」

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琵琶湖伝百三十五「山内記念」

山内記念は、所司代の中では、

(さえない男

)

であった。

己の十手の技を練習試合などでひけらかすでもなく、淡々と同心として犯人捕縛に勤めているだけだ。

小悪党を捕まえるのに技をだす必要もない。

だから周囲の同心と記念の実力差など誰も気づかない。

所司代の評価もせいぜい「並」程度であった。

今度の暗殺隊へ呼ばれたのも、腕達者の一人くらいで、同心の責任者役を言い付かったのも、「年長者」だからだった。

しかし、記念自身は、やっと己の力を発揮できる場を与えられたと思っていた。

すでに四十を越え肉体的衰えを感じつつあるこのごろ、少年の時からひたすら修行に明け暮れてきた十手の技を一度も実戦で使うことなく、老いていくのかと、「焦燥感」すら覚えていたのだ。

「新免無敵」の鉢巻きは、己の意気込みを記念なりに象徴させたものである。

その鉢巻きをした山内記念は体の力を抜き、左右の手に一本ずつの十手を持ち、降りしきる雨の中で、走ってくる宮内平蔵に眼をやりながら立っていた。

突然、雨の音が遠のいた。

雨足が弱まって、ピタリと雨がやんだ。

急に水溜りを駆けてくる足音が記念の耳に飛び込み、その刹那、宮内平蔵の裂ぱくの気合を込めた太刀が、袈裟懸けに振り下ろされた。

記念の両腕から、キラリキラリと光が動いた。

平蔵の刃(やいば)を右手の十手の鉤(かぎ)の部分でくいとめるや、そのまま右腕を肘を中心にしてひねると、平蔵の一刀は、ポキリと折れてしまう。

同時に左手で平蔵の右手首をしたたかに叩く。

普通なら左手で頭蓋骨を叩き割るのだが、凄腕の剣客なら折れた剣の残りの部分を体ごとぶつけて相手の首筋を狙いかねず、まず刀を手からはなさせることに、全力を記念は傾注したのだ。

あまりの痛打に平蔵は、握っていた半分に折れた太刀を地に落とした。

休まず記念は、平蔵の股間を蹴り上げた。

(蹴り上げたあたりで何やらつぶれる音がし、平蔵は鼻や口より血を吐きながら倒れる

)

はずであった。

しかし、蹴りは浅かったのである。

もちろん平蔵は、その痛みから記念に背中をみせたほどだが、「つぶす」までではなかったのだ。

なぜか。

蹴り上げようとする記念の首筋にむかい、一条の光がむかってきたのだ。

その光を十手で払ったぶん、深い蹴りができなかったのである。

さらに二本の光を地に叩き落とす。

卍形の手裏剣であった。

「宮内殿、大丈夫か」

二人の男が平蔵を抱きすくめた。

「ウゥッ、すまん。不覚だ」

平蔵がかすかに声をだす。

馬に乗った男が現れ、瀕死の平蔵を馬に引き上げ、そのまま走らせ始める。

追いすがろうとする記念に、残った二人が応戦し、その間に馬は去っていった。

    ・・・・・。

このあとの状況を見た所司代の同僚の話によると、悪鬼の形相で立つ記念の足元に、頭を割られた者と顔の形が無くなった者との二名の死骸があったという。

恐る恐る記念に声をかけると、すぐに普段の穏やかな顔になったそうな。

以下百三十六に続く

2007年5月23日 (水)

琵琶湖伝134「雨中の脱出」

琵琶湖伝134「雨中の脱出」

通りで待ち受けたのは、暗殺隊のうち十名。

暗殺隊は近江屋に探索をあきらめ戻って来た者や膳所藩の応援六人を含めて、二十人。

喜市包厳は、膳所藩のものと伊賀者を引きつれ内部から攻め、外へは山内記念以下のものを配置していた。

その配置の真っ只中に、宮内平蔵は降り立った。

平蔵は、顔を上に向けた。

雨が、妙に顔に痛い。

暗殺隊の一人が、ズブ濡れになりながら斬り込んで来た。

平蔵は、横殴りに太刀を振るった。

斬りつけて来た者の胴が割られ、その刀が雨の中を高く舞い上がった。

男は地上に転がったが、かすかなうめき声は、雨の音に消された。

水溜まりが、赤く濁る。

宮内平蔵は、走り出した。

そして走りながら、太刀を左の逆手に持ち替え、右手を柄頭に添えた。

平蔵に追いすがろうと左側から来た男に、その太刀を繰り出した。

脇腹を突かれて、男は通りの店の板戸にぶつかりながら転倒した。

下の通りの暗殺隊が、宮内平蔵の剣先で混乱したのを見た暗報は、脱出の好機と通りに飛び降りようするが、しびれ薬の白煙の中から、分銅がスルスルと伸び、暗報の首に巻きついたのである。

喜市包厳の持つ鎖鎌から放たれた、執念の一投であった。

「あら・・・・・・まぁ、うぅー」

暗報は、己の首の骨がきしむ音を聞いた。

「もう、だめぇー」

情けない声を出しながら絶命していく暗報だったが、天は暗報を見捨てなかった。

突如、分銅の締め付けが緩んでいったのである。

無念、無念、無念。

暗報のしびれ薬の威力の前に、喜市包厳が屈し、意識を失ったのである。

暗報は、首から分銅をはずすと、宮内平蔵を追っていくものたちを確認し、通りに降りると、首の痛みに耐えながらその逆方向に走っていった。

雨に煙る路上に、百姓姿ながら、白いたすきをかけ、青色の生地に赤い字で「新免無敵」と書かれた鉢巻きをしっかり額に結んだ男が、平蔵を待ちうけていた。

一人、他の者たちから離れ平蔵の逃げ道に先回りをしていた山内記念である。

山内記念は、十代のころより当代一の十手の使い手といわれた美作(岡山県北東部)の国宮本村の新免無二斎(しんめんむにさい)の元に年に何度も通い十手の修行に励んだ。

ちなみに新免無二斎は、後の剣聖宮本武蔵の父である。

三十を過ぎてのち同心の仕事が忙しく、宮本村に行けなくなり、それ以後十年間は新免流の十手術の練習を独学でおこなう。

昨年の暮れ、無二斎が、山内記念の家に、

「来年から豊前小倉藩の食客となる。九州に行く前に、お前の十手がみたくなった」

とふらりと現れ、記念の技を見て、

「わが技の継承者は、おぬしだ」

と免許皆伝の代わりとして青地に赤の「新免無敵」の鉢巻きを渡したのである。

以下百三十五に続く

2007年5月20日 (日)

琵琶湖伝133「青葉屋襲撃」

琵琶湖伝133「青葉屋襲撃」

「そうか、井原正英には、毒が効かぬのか」

宮内平蔵が、手酌で酒をグイッと飲み干していった。

「おそらく、あれは、わしと同じ毒使いだな。その修行の結果として、毒が効かぬ体になったのであろう」

「暗報さん、毒といってもしびれ薬程度で、死ぬような毒には耐えられぬであろう」

「そうだが、それはわしも同じ。なめるくらいなら大丈夫だが、木の葉がえしの木の葉に猛毒を塗ってしまったら、相手が死ぬ前にわしが死ぬからな」

暗報が、食っていた焼きおにぎりをのどに詰まらせ、眼を白黒させながらいったので、その様子に宮内平蔵も口元がゆるむ。

暗報は茶を飲んで、のどのつかえをとり、

「なにが居合いの達人だ。毒使いということも教えてくれんとな。危なく殺されそうになったのだからな。成幹様も中途半端な情報を信じられたものだ」

「しかし、あとの情報は間違っていなかったようですから、しかたないですよ」

「何がしかたないですよだ。わしの身になれ。怖かったんだぞ」

暗報は、青葉屋の土間で点欠を解かれて、自由になったあと、一風呂浴び、夕食をとりながらの、今日の報告をして、忙しかった一日の終わりをゆっくりとくつろいでいたのだ。

二人の部屋は通りに面した二階であるが、すでに午後九時。

昼間の賑わいがうそのように通りは静かになったが、旅籠の中は、旅の疲れをいやしている人々の声が、そこここに満ち溢れてにぎやかである。

「しかし、あの百姓たちには助けられた。くるまに乗せてここまで運んでくれて、金のためではない、自分のためでもあるというのだからな」

「ウーン、世の中には損得抜きで動いてくれる人間がいるんですかね。暗報さんを助けても、何の得にもならんでしょうに」

不意にザーッという音が聞えて、瓦や地面を叩く音が聞こえてくる。

雨が、降り出したのであった。

暗報は、雨戸を閉めようと、障子を開けた。

向かいの店の軒先で雨宿りをしているのか、男たちの姿が見える。

「暗報さん、なにか階下が静かになった気がしませんか」

暗報に宮内平蔵が、聞いてくる。

「外は雨でうるさくなり、中は物音ひとつしなくなった。情けは自分のためか・・・・・・」

暗報は振り向きもせず、つぶやくようにいった。

「暗報さん、夜の雨には松が似合ったよな。」

「平蔵、唐崎神社で逢おう」

そういうのと、廊下側の障子が蹴破られるのは同時であった。

暗殺隊の一人が声もたてず、斬り込んだのだ。

「ウグッ」

その者の心臓を、一瞬にして宮内平蔵の剣が貫き、突き入れた剣を平蔵は、ひねりながら抜いた。

飛び込んだ者の全身に向かうはずだった血が、外に噴出した。

部屋は血の海となった。

次に入ってきた暗殺者は、血に足元をすくわれ、体勢を立て直そうとしたときには、平蔵の刀に胸板を突き刺されていた。

平蔵は、すぐさま抜き戻す。

暗報は、小さな丸い玉をだすと、廊下に投げた。

パーンとはじけた玉から白い煙がでる。

暗報特製のしびれ薬の粉がが廊下に充満する。

平蔵が、通りに飛び降りた。

薬をかがないのと、先に出て、暗報の血路を開いてやるためである。

以下134に続く

2007年5月18日 (金)

琵琶湖伝132「暗報感激する」

琵琶湖伝132「暗報感激する」

高西暗報に山内記念と霧隠才蔵が会えたのは、まさに天運であった。

東海道を上って草津宿にゆく手前の街道に、妙な「ハゲ」た素浪人が立ち尽くしているという話を、旅の薬売りから聞いたのは、瀬田の東光寺そばの小さな茶店で遅めの昼食をとったときであった。

そこで山内記念と霧隠才蔵は、失敗覚悟で近くの庄屋で野良着を借り百姓に変装し、自分たちの衣服や刀などを大津の近江屋に運ぶようにその家の者たちに頼んで、街道にむかった。

そして眼にしたのが、なぜか身動きできず、中腰のままに驚いた顔で立っている、ハゲの小男で汚い着物を身につけた浪人であった。

「どうされました」

山内が、高西暗報の正面から声を掛ける。

「おぉ、心配してくれるか。どうも体がさっぱり言うことを利かぬ。情けをかけてくれぬか」

山内と才蔵は、この男が「問題の」男か見当がつかなかった。

悩んだときは中途半端に答えるしかない。

二人で声を合わせたかのように、

「はぁっ」

といった。

「おぉ、おぉ、助けてくれるか。ありがたい。大津に青葉屋という旅籠がある。そこにつれていってくれ。頼む」

山内が、問題の男か否かに関係することを問う。

「そこで、どなたかお待ちでございますか」

「そうなのだ、そこに宮内平蔵というバカがおってな。これがわしの仲間なのだ。そいつならわしのこの状態を解決してくれるはずなのだ」

(バカはお前だ)

と二人は思わずいいかけたが、そこは我慢し、

「お前様の名前を聞いてもよろしいでしょうか」

という。

「そうだな。名もいわずに親切をもらうのは、横着だな。わしは、高西暗報だ。よろしくね」

暗報の言葉に対し、山内は「伊作」、才蔵は「万作」とその場そのぎの名前で取り繕う。

すぐに才蔵が近所の家から大八車を譲り受けてくる。

そして、二人で、暗報を抱え上げ大八車に乗せた。

暗報は、涙ぐみながら、

「すまぬ、すまぬ」

と感謝の言葉を述べ、

「おぬしらも忙しいであろうに」

と気遣う。

「いやぁ、大津の米屋に帰るところでございます。ご心配なく」

笑いながら二人は、暗報に答える。

「わしは家族に恵まれぬ者でな、人の優しさが本当に身にしみるのよ」

暗報は、独り言のようにつぶやいている。

(今ここでこの男を殺すのは簡単だが、宮内平蔵のところまで連れていってもらわぬとな)

山内記念と霧隠才蔵が、眼と眼で言葉を交わす近江路の夕暮れであった。

以下133に続く

2007年5月14日 (月)

琵琶湖伝131「才蔵の涙」

琵琶湖伝131「才蔵の涙」

午前一時に大津にはいった暗報と平蔵は、烏丸家なじみの旅籠屋「青葉屋」の戸を叩き、すでに休んでいた店のものを起こし、極秘裏に泊めてもらう。

「青葉屋」は、二人にとって大津唯一の安全地帯である。

ただし暗報は茶をすすっただけで、一人、草津にむかう。

おそらく今夜殺したものの仲間が、大津近辺を血眼でさがすのは眼に見えている。

そのとき、探すのは平蔵の顔であり、暗報の顔は割れてないであろう。

烏丸邸をでたときから、平蔵は尾行がついていることに気づいていた。

そいつらをいつ殺すかの、機会をうかがいながらの大津行きでもあった。

編み笠に隠れた暗報の顔は、割れていない、と考えるのに無理はない。

そして自分の顔は割れている。

平蔵が暗報に単独行動を提案したとき、暗報は即座に平蔵の意を解し、東海道を下っていったのである。

同じころ、霧が深く立ち込めだした真夜中の逢坂山の坂を、声を殺して泣きながら下っていく霧隠才蔵の姿があった。

坂を上り、下りにかかる蝉丸神社の草むらに、かすかに光る忍び火を見逃さなかったのは、才蔵自身であった。

そしてその二つの遺体を最初にみつけたのも。

もし己が京に報告に戻らねば、いや死んだものが戻っていたら、

「お前が一番若いから」

という理由だけで、才蔵は、所司代のものが来ていたらいけないと暗報の家に戻されたのだ。

人の生死を分けるのは偶然か。

その不条理が才蔵の精神のバランスを崩し、さっきまでいっしょに生きていた者たちが消失した感覚が悲しみを生み、涙をとめどないものにした。

暗殺隊の責任者である喜市包厳も才蔵の忍び泣きに同調し、泣きたくてたまらなくなった。

(泣くのは、宮内平蔵と編み笠の男を殺してからだ)

そう自分を奮い立たせ、大津宿に入る。

大津には、伊賀者の隠れ宿「近江屋」があり、見かけは普通の旅籠で、かなりの評判である。

喜市包厳は、近江屋の手前で暗殺隊の足をとめさせた。

自分を含めて伊賀者十二名、同心八名。

「才蔵、編み笠の男について何か特徴はないか」

わざとぶっきらぼうに、声をかける。

「はい、・・・・・・今考えますと、かなりの小男で、着物がみすぼらしい感じで、一度笠を脱いだのが、遠目に見えて、その頭が・・・・・・何か光ったような」

「それはハゲではないか」

伊賀者の中から声が挙がる。

「こらっ」

それを叱る声。

実は喜市包厳は、見事なほど毛のない「ハゲ」なのである。

「いいや、叱るな。遠目で光って見えるとは、相当な「ハゲ」だな」

喜市は深刻な顔をし、己の頭をなでた。

「クッ」

何人かは、その様子のおかしさに吹き出しそうになる。

若干、和らいだ空気が流れたところで、

「近江屋を捜索の本部とし、わしと副組頭の藤木陣内が控える。他は二人一組で宮内平蔵とハゲの小男で汚い着物を身につけた浪人を探せ」

と指示をだした。

さらには、全員が宮内の顔を知っている伊賀者と同心で一組とした。

伊賀者だけの組が一つできたがしかたない。

また落ち込みようの激しい霧隠才蔵には、同心の中の責任者である山内記念に組んでもらった。

山内ならなんとか才蔵をうまく動かしてくれると思ったのだ。

暗殺隊を大津近辺に散らばらせるからには、全員がそろって攻撃ができるわけもなく、見つけた時点で近江屋に知らせるようにと厳命した。

西へ東へと散らばっていくなかで、山内と才蔵の組にはしばらく残ってもらった。

攻撃の人員不足を補うために喜市は、大津を管轄する膳所(ぜぜ 滋賀県大津氏膳所)藩に急いで応援依頼を申し込もうと考えていた。

そのとき、正式な所司代の役人がいたほうが、話が円滑にゆくというものである。

一六〇一年、徳川家康は、大津城を廃城にして大津と瀬田の間の膳所に城を造る。

藩名も大津藩から膳所藩に変わる。

膳所藩は三万石であり、藩主は徳川家譜代の戸田 一西(とだ かずあき)。

琵琶湖のしじみ漁などに力をいれ、関ヶ原の戦いの影響で荒廃した大津地域の復興に全力を傾注していた。

その膳所城内で、夜が明けきらぬうちに、喜市と山内は膳所藩の奉行、世良次郎三郎と面会し、藩内の腕達者を六名、昼までに近江屋に送ることを約してもらった。

喜市たちが、城の外に出たのは、空が明けだしたころである。

「今からどちらに向かいますか」

喜市は山内に問うた。

「ここまで来たなら、草津方面をまわろうかと」

山内が答える。

「努力はしてもらいたいが、最後は天運と思えよ」

喜市は、霧隠才蔵の顔を覗き込んで、優しげにいった。

以下百三十二に続く

2007年5月12日 (土)

第二部琵琶湖決戦編130「ゆれる明かり」

第二部琵琶湖決戦編130「ゆれる明かり」

「かなりの人数か」

高西暗報がひとりごとのようにいった。

「そのようで」

他人ごとのようにうなずいたのは、宮内平蔵。

平蔵は、この日の夜、烏丸中将成幹より命令を受ける。

「明日のいつごろかはわからぬが、井原正英と市来良之介というものが、東海道をのぼってくる。街道の分岐点となる草津の手前の街道沿いで張れば、必ずそのものたちと会う。そこで二人を殺してもらいたい。かなり手ごわい相手なので、高西暗報を連れてゆくように」

とのことであった。

殺すべき二人の身体的特徴と似顔絵をもらい、そのまま烏丸邸を出て、暗報を誘い夜の京の町を大津に、そして、草津にむかった。

暗報の住居の近くの五条橋から大津まで二十キロも考えればよい距離であり、ふたりは、平蔵が持った提灯で足元を確かめながら逢坂山をめざす。

そのあいだに暗報は、正英と良之介の似顔絵を頭に叩き込んだ。

そうやって、逢坂山の坂の上りを越え、下りに入ったとき、

(おや・・・・・・)

暗報は、妙な気持ちになった。

自分たちのあとを、二人の男がつけていることは分かっていたのだが、その男たちのさらに背後から、

(ひたひたと押し寄せてくる)

気配を感じたのだ。

それが、冒頭の、

「かなりの・・・・・・」

になったわけだ。

だが、そのことで暗報も平蔵も歩みを緩めるでもなく、後ろも見ない。

月明かりのみが頼りのこの夜道で、尾行者が提灯をもってつけるはずもない。

自分たちの提灯のみが、近くにいる尾行者の頼り。

逢坂の関を通過し、蝉丸神社(浄瑠璃で有名な盲目の琵琶の名手、蝉丸を音曲の神様として奉る)に差し掛かったとき、暗報の提灯の明かりが消える。

尾行の伊賀者二人は、頼りが闇に消えたので一瞬たじろぎ、小走りになる。

ここまで来て、逃げられたのでは、苦労も水の泡。

小走りは、尾行者の自然な動きであった。

すぐに提灯の火が、ゆらりゆらりと揺れながらあらわれた。

遠目にみる伊賀者二人は、一定の距離をとり、提灯の動きを見る。

(・・・・・・)

動かない。

提灯の火はまったく、その大きさを変えない。

まさかと思いながら、腰の太刀をいつでも抜けるようにして、油断なくその火に近づいた。

なんと、提灯は蝉丸神社の入り口の木の枝にぶらさげられていたのだ。

「しまった」

「逃げられたか」

うろたえる伊賀者たちの顔が、ゆれる明かりに映し出されたとき、彼らの顔をめがけ、剣がうなった。

「ぎゃぁっ」

血けむりをあげて転倒する二つの影。

宮内平蔵は、いったん火を消し、あわてさせ、火をつけて落ち着かせ、次に明かりをとどめることで、あわてさせと尾行者に心理戦を仕掛けた。

そしてその神経を、

「逃走」

に集めさせ、精神的にまったく無防備となった一瞬を狙い、電光石火の殺人剣をふるったのだ。

「ヒヒヒヒヒヒッ」

暗報が、笑いながら闇の中から現れ、倒れ伏し動かなくなった二つの影を草むらに運びこんだ。

「暗報さん急ごう。近づいてくる足音は、十人以上はいるぞ」

「あわてない、あわてない。平蔵、いい仕事をしますねぇ。ククッ。大津の宿に入れば、もうどこにいくかはわからぬな。琵琶湖を西に行けば堅田。東に行けば、草津からは行きたい放題」

二人は、逢坂山を下り、大津に入っていく。

さきほど暗報に草むらに引きずられた伊賀者の一人が、目を開く。

苦しい息を吐きながら、ふところから、忍び火を出した。

彼は、この尾行の間、忍び火を各所に置き、後にくる者たちの道しるべとしていた。

尾行者としての仕事を全うするために、その忍び火を己の傍らに置き、絶命した。

高西暗報と宮内平蔵は、最後の仕事をして死んだ伊賀者のことなど知る由もない。

そして、最後の忍び火を発見し、怒りに打ち震える暗殺隊のことなど、なおさら知るはずがなかった。

以下131に続く

2007年5月10日 (木)

琵琶湖伝129「京都所司代動く」

琵琶湖伝129「京都所司代動く」

情けの話がかわされる前の夜のことである。

烏丸中将成幹の護衛役宮内平蔵が、烏丸邸をでたのを知った伊賀組は、烏丸邸を常時監視する十名(伊賀組は三十名が京都所司代に派遣されていて、反徳川派の公家の中で一番危険と思われる烏丸中将成幹の監視を任せられ、その監視に昼夜二交代制で十名ずつ、予備要員が十名という形であたっていた。その伊賀組組頭は喜市包厳(きいちほうげん)が勤めていた)のうち三名に尾行させ、一人を京都所司代に走らせ応援を頼んだ。

すぐに京都所司代の長官板倉勝重は、喜市包厳に対し応援部隊として予備の伊賀者十名と喜市自らの出動を命じ、さらに所司代の同心の中から腕達者の十名を喜市につけ、同心の責任者には、十手術の名手山内記念を指名した。

同心たちはすべて、浪人姿の軽装に身を変えた。

山内たち同心は全員が公家監視の勤めをしているわけではなく、残念ながら急遽呼ばれた山内は、宮内平蔵や高西暗報の顔を知らなかったのである。

板倉勝重は、烏丸中将成幹の片腕、宮内平蔵暗殺を指示する。

尾行役の三人から伝言を頼まれた岡っ引きの報告で、五条橋からやや下った民家に宮内平蔵が入ったことを知った喜市包厳以下の暗殺隊は、その民家の襲撃を図るが一足遅く、も抜けの殻であった。

二十人もの打ち手をだして、何の成果もなしでは、喜市の進退が問われてもおかしくない。

民家で思案に暮れていた喜市のもとに、烏丸邸からの三人の尾行役の一人、霧隠才蔵が戻ってくる。

全力で駆けてきた才蔵は、息を切らしながら、宮内と編み笠の浪人が、山科方面に移動中、まだここから六キロもないところにいるはずで、走っても馬でいっても間に合うといった。

その報告を聞くか聞かぬかのうちに、足に自信のある、伊賀者全員が外に飛び出す。

当然、才蔵も休む暇なく、走り出す。

山内記念は、同心二人を、この家に残し、

「この家の持ち主について調べよ」

と命じ、他の同心たちを引き連れ、伊賀者に続いた。

暗殺隊の一行は途中で足を緩める。

尾行の伊賀者が、道々に忍び火(しのびび わずかな光を放ついまでいう蛍光塗料をぬった小さな筒)を置きだしたのだ。

才蔵をいれて二十名もの集団が、いっぺんに近づいては気づかれて逃げられるであろう。

ここは先をゆく伊賀者二名のものからつかず離れずの距離をとり、追尾するしかない。

山科周辺は古くから交通が盛んであり、大津宿へ抜ける逢坂の関が東海道の要所として知られていた。

また逢坂から南へ抜ける奈良街道も存在する。

いずれにせよ、山科方面に宮内たちが行ったということは、狙う相手がどの方面に行くにせよ、京都所司代の暗殺隊は、とにかく逢坂山まで動くということであった。

以下130に続く

2007年5月 8日 (火)

第二部琵琶湖決戦編128「情けは人のためならず」

第二部琵琶湖決戦編128「情けは人のためならず」

宮内平蔵が、土間にいってみると、暗報が大八車に仰向けに乗せられていた。

その横に二人の百姓が立っている。

一人は、四十前後か浅黒い丸顔で、百姓然としているが、どことなく学問をしているような品がある。

もう一人は、まだ若く、細身だが百姓仕事で鍛えたか、引き締まった体つきである。

「お客様、お連れの方でございますか」

店の主人らしき者が、宮内平蔵に問う。

「すまん。連れのものだ。おい、暗報さん、どうした」

主人に答えながら、暗報に声をかけた。

「平蔵か。点欠された。解いてくれ」

暗報が、わめいた。

顔を真っ赤にし、まるでゆで蛸である。

宮内平蔵は笑いながら点欠を解いてやった。

その間に、若い方の百姓がその場を去った。

フワァーッと大あくびをしながら、暗報は大八車から降り、腰の辺りを両手で押さえた。

「ずっと、動けなくて、体中が痛いわ」

平蔵にそういうと、暗報は百姓のほうを見た。

「あらまぁ、一人消えたか」

「はぁ、今、米屋に連絡に」

「おぅ、そうであったな。おぬしらは、大津の米屋に帰る途中であったな。ウン、ご苦労ご苦労。感謝しているぞ」

宮内平蔵が横から聞く。

「暗報さん、この者は」

「おう、身動きとれず、困っていたわしを、助けてくれた百姓よ。こちらは宮内平蔵というお方だ」

「は、よろしくお願いしますだ」

暗報の紹介に百姓も慇懃に応対する。

満足そうに暗報はそれを見て、平蔵にいった。

「詳しいことは、お前の部屋に戻ってから話そう」

そして暗報は懐から財布を出し、財布ごと百姓に与えた。

財布の重さに百姓は、

「こんなにもらえねぇだ」

と狼狽する。

「今、一人はおらぬが、どうか二人で山分けしてくれ。情けをもらった礼だ」

暗報の優しい物言いに百姓は、財布から二両をだし、あとは返して、

「それじゃ、二両もらっておきますだ。別に金のために助けたわけじゃねぇ。困ったときはお互い様で。情けは人のためならず、自分のためでございます。失礼しますだ」

といい、ニコリと笑って外に出て行った。

残った暗報と宮内平蔵は、宿の者たちにも頭を下げ、二階の部屋に戻った。

外に出た百姓は、青葉屋が見えなくなるまでゆったりと歩いたのち、突如、路地の暗がりの中に消えていく。

その消えた路地を抜けた所に、広い空き地があった。

百姓が、その空き地にでたとき、暗やみから、

「山内(やまのうち)様、お疲れ様でした」

という声がかかった。

声の主は、さきほど青葉屋から消えた若い方の百姓である。

山内と呼びかけられた者は、実は、京都所司代の同心山内記念(やまのうち きねん)であり、若い方は反徳川の公家衆の監視のため、家康の命で所司代付きとなっていた伊賀者のひとり、霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)であった。

山内が、眼を凝らせば、すでに才蔵の背後に十名のものが整列している。

才蔵が先にでたのは、近くにいる仲間を呼びにいったためであった。

「あやつらの命も、あとわずか。まさかあんな街道で立ちすくんでいるとは。探すのに骨が折れたわりには、あっけないもので。」

才蔵が、ほくそ笑みながらいうと、

「おい、これ」

と山内記念が分け前の一両を才蔵に渡した。

「これは・・・・・・」

「暗報さんがな、情けをかけてもらったお礼にと、くれたのよ」

「自分を今から殺す者に、金をくれたので。山内様もよくもらえましたね」

「いやぁ、私もいったんだが」

「なんとおっしゃられたので」

「情けは人のためならず、とな」

以下129に続く

2007年5月 7日 (月)

琵琶湖伝新着お知らせ

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2007年5月 6日 (日)

第二部琵琶湖決戦編百二十七「秘伝独鈷比叡剣」

第二部琵琶湖決戦編百二十七「秘伝独鈷比叡剣」

成幹は前に突き出した剣をゆっくりと手首をかえしながら回しだした。

次第にその回転の速さが増していくように宮内平蔵には思えた。

小さな風車が強風で猛烈に回りだした感じである。

そして、その風車の背後にいるはずの成幹の姿が、風車の加速度を増す回転の中に消えていったのである。

今、宮内平蔵の眼前には、すさまじい速さで回っていく剣があるのみだ。

魔剣である。

どう攻めればよいのか。

まいったといえば、それで済むが、それは武術家としての誇りが許さない。

どうせ追われる身であり、きのうも明日もないのだ。

あるのは、今日であり、今の一瞬だ。

死ぬことなど恐れては、こんな人生は送れるものか。

宮内平蔵は、刀を右斜め上にして、そのまま肩にかつぐ形をとった。

体ごと風車にぶつかり、渾身の力を込めてかついだ刀を振り下ろし所詮一本しかない剣にぶつけて、成幹の剣を折り、そのまま胸板を突こうと考えたのだ。

仕官のことなど、もうこの男の頭から消えていた。

ただ強い敵に立ち向かい、全力で勝負するという武芸者の本能が、体を支配していた。

その本能が、宮内平蔵を前に進ませようとしたとき、成幹の剣が眼前に突き出されたのである。

反射的に首をひねると右ほほに痛みを感じた。

成幹の剣が掠めたのだ。

思わず、かついだ刀を前に振ったが、すでに成幹は宮内平蔵の背後に回っている。

動こうにも成幹の剣が首筋にあたっていて、身動きがとれない。

「まいった」

心底、宮内平蔵はいった。

本当に参ったのだ。

刀を前方に投げ、両手を挙げた。

「合格じゃ。ほほの傷をふきなされ。よい度胸でおじゃる。太刀を振る速さにも感心したぞ」

成幹はそういうと、剣を納め、庭から足早に去っていった。

宮内平蔵が成幹の護衛役となったのち、成幹から直接に聞いたのだが、このときに示した技こそ、烏丸家の秘伝、伝教大師最澄直伝の独鈷比叡剣 (どっこひえいけん)であったそうな。

宮内平蔵が座る青葉屋の二階の小部屋の障子の外から、女中が声をかけた。

「お客さん、、高西暗報ってかたが土間でお客さんの名前いって、呼んでくれって騒いでるんですが」

「上にあがれといってくれぬか」

「あのぅ、ぜんぜん体が動かないみたいなんで」

そう聞くと、宮内平蔵は障子を開け、女中に礼をいい、階段を下りた。

以下百二十八に続く

2007年5月 5日 (土)

琵琶湖伝新着お知らせ

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2007年5月 4日 (金)

琵琶湖伝百二十六「宮内平蔵

琵琶湖伝百二十六「宮内平蔵」

大津の宿に、青葉屋という二階建てだがそう大きくない旅籠がある。

多くの旅籠や居酒屋が立ち並ぶ宿場町の通りの一角で昔から、細々と旅館業を営んでいた。

その青葉屋の二階の一部屋で静かに高西暗報の帰りを待つ男がいた。

名は宮内平蔵(みやうち へいぞう)

三十五歳。

長身で筋肉質だが、顔が異常に青白く陰鬱な感じを人に与える。

右頬に傷跡があり、まだ新しいのかかなり目立つものであった。

この男、もとは薩摩藩の人間であり、北薩摩の東郷(東郷重位 後年示現流剣術の始祖となる)か南薩摩の宮内かといわれた剣の達人である。

その腕を買われ、あの関ヶ原の折に、敵中突破を成功させた島津義弘の護衛役として、一五九九年まですごすが、その年の暮れ薩摩藩内で一大騒動を起こす。

なんと義弘の若い側室に懸想し、手篭めにしようとして失敗、側室と側室を守ろうとした二人の藩士を殺害、その日のうちに薩摩を逐電したのである。

義弘の怒りはすさまじく、急ぎ討ち手を差し向けるが、いづかた知れず、そのうちに時代は関が原へとむかい、宮内平蔵の件はうやむやになってしまう。

諸国を逃げ回っていた宮内平蔵は、関ヶ原で西軍が負け、島津義弘が薩摩本国に戻ったことを知り、島津とは逆に京都にむかった。

反徳川の中心人物関白九条兼孝が、しばしば京の薩摩屋敷を訪れていて、義弘の護衛役であった宮内平蔵は、なんども直接に話をしていた。

(自分の剣の腕は今の九条様には必要なはず)

という読みがあったのだ。

一六〇〇年の十月、九条兼孝の邸宅の門をたたいた宮内平蔵は、まったく無視をされ、門番たちに追い返される。

ただ、一人の門番から、無言で紙切れを手渡された。

その紙切れには、地図と烏丸の文字があり、九条兼孝が薩摩屋敷に来たときに、いつも傍らにいた、烏丸中将成幹(からすまちゅうじょうなりみき 第一部にでてきた暗器師である)という公家の顔を、宮内平蔵は思い出していた。

烏丸の門前に行くと、係りの者が庭に回れという。

庭に行くと、顔をべったりと白く塗った面長の男が、御付の者もつけず一人で待っていた。

「そちが、宮内か」

少々かん高い声で宮内平蔵に声を掛けてくる。

宮内平蔵はその場に、片ひざを地につけ、黙礼する。

「そなたの腕を、麿自ら試してつかわす」

そういうと成幹は、妙に細長い剣を抜き、左手に持つとその手を前に突き出し、半身の構えになった。

そして、

「どこからでも、かかっておじゃれ」

とやはり、かん高い声でいう。

宮内平蔵は、笑いをこらえながら立ち上がり、刀を抜き青眼に構える。

(ほどよいところで負けてやろう)

くらいの気持ちで成幹にむかった。

以下百二十七に続く

2007年5月 3日 (木)

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2007年5月 2日 (水)

琵琶湖伝百二十五「秋の午後」

琵琶湖伝百二十五「秋の午後」

正英は、起き上がるとふところから気付け薬をだして良之介にかがせ、さらに毒消しの点欠もした。

良之介は、眼を何度もまたたかせ、何が起こったのかを把握しようと躍起になった。

その様子がおかしくて、正英は笑いながら良之介を起こした。

立ち上がった良之介は、中腰のままで眼を丸くして動かずにいる、奇妙な小男を見てさらに頭が混乱したのか、首をかしげだす。

「良之介、この男は風上から毒を放ち、我らを殺そうとしたのよ」

「えっ」

良之介は合点のいかぬ顔をする。

「この男を見かけたとき、臭いが流れてきたよな。そのときは、はっきり分からなかったが、横を通りすぎたとき、臭いの正体が、しびれ薬とわかったのよ。分かったときはもう、お前は十分に嗅いでしまっていたからな。この乞食浪人がどうでるか、よし、芝居をしてやろうと思ったのだ」

「それで、お倒れに」

「ウン」

正英は、

(うまくいった)

という風情で頷いた。

正英と良之介は、点欠され身動きのとれなくなった男をみつめる。

「名を」

正英が問う。

口はきけるのだ。

「高西暗報」

正直に答えた。

「なぜ、我らを殺そうとした」

今度は良之介が問う。

「名以外は言わぬ。早く殺せ。手足を削ぎたいならそうせよ。名をいったのは、殺した奴の名くらいは、知らぬと寝覚めが悪かろうと思うてな」

「それなら、首の骨でも叩き折ってやろう」

良之介は残酷なことを薄ら笑いを浮かべていう。

正英は、腕を組んでうつむいて後、

「殺すまい」

といった。

「正英様。せめて拷問くらいはして、こやつにかかわりのある者たちの名でも吐かせましょう」

「いや、吐くまい。では、殺すかといえば、それもしたくない。きのう俺は六人もあやめた。ただ向こうから挑んできたと言い訳はできる。しかし、この身動きのとれない男を殺せるのか。俺はその気にはなれん」

「おい、わしを甘くみるな。今、殺さないとあとで後悔するぞ」

暗報が、忠告めいた言葉を口にした。

「何をえらそうに。殺してもらいたいのか」

良之介は暗報の頭をポカリとたたいた。

「お前は、身動きのとれない人間には、本当に強いな」

正英が良之介に声をかける。

「私は、自分より弱い人間には、滅茶苦茶強いんです」

冗談のような理屈を良之介は真面目な顔でいった。

正英が苦笑すると、良之介もニヤリと笑い、

「行きましょうか」

という。

「お前ら、後悔するぞ。見くびるな。おい、点欠を解かぬか。野良犬にでも襲われたらどうするのだ。わしはいつでも死ぬ覚悟はあるが、犬に殺されては、人として情けないぞ。聞こえぬのか」

正英は、点欠を解かなかった。

殺されかけたのである。

それくらいのことは、してもいいだろうと考えた。

二人が去ってゆく背後で、暗報の恨めしげな声が響く秋の午後である。

以下百二十六に続く

2007年5月 1日 (火)

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2007年4月30日 (月)

第二部琵琶湖決戦編124「奥義 木の葉がえし」

第二部琵琶湖決戦編124「奥義 木の葉がえし」

暗報は、義父を殺したその足で東命寺に戻り、翌朝、師匠であった久育(きゅういく)に茶をだす。

師匠久育の死体を発見したのは、修行僧であり、苦悶の表情を浮かべて死んでいるそのそばで、うまそうに茶をすする暗報の姿を見た。

暗報との実力差を知る修行僧は、賢明にも急いでその場を離れ、

「久育様が暗報に殺された」

と大声でわめきまわった。

その声に応じ、何名もの僧が暗報を探す。

そのなかの四名のものが、悠然と山を下っていく暗報を発見し追いかける。

暗報は、四名の追っ手が近づくのを待って、何十枚もの木の葉を宙に投げ上げた。

「木の葉がえし」

という東命寺派奥義のひとつで、木の葉にしびれ薬をしみこませ、風上から風下の相手に放つことで、その葉に触れるか臭うかした相手を、しびれ薬で身動きのとれない状態にする技である。

賢明なる読者は、技をかけるものも己の毒で傷つくのではと思われるかも知れないが、毒使いの奥義を極めたものなら、よほどの死に至る毒以外には耐えられるのである。

だから風上に立てる道を暗報はわざわざ逃げていたのであり、追っ手がくるのを期待していたのだ。

「木の葉がえし」を受けた追っ手達は、気を失いその場に倒れる。

暗報は、倒れて動けない四人の頚動脈を掻き切って絶命させ、

「ヒヒヒヒヒヒッ」

と奇妙な高笑いをして、高雄山をあとにした。

そして「木の葉がえし」の技を最後に、暗報の姿は消えてしまう。

高雄山東命寺派は暗報を破門し、暗報への刺客を放つが、暗報の行方がしれないだけに、刺客もなにもあったものではなかった。

では、暗報はどこに消えたのか。

暗報乱心の噂を聞きつけた、暗器師烏丸中将成幹は、自身の家臣に命じ全力を挙げて暗報を捜索した。

この稀代の毒使いを、己が掌中にしたいというのは、暗器師として当然の思いであった。

運よく東命寺派のものより早く、紫野の大徳寺近くの荒れ寺に潜んでいた暗報を発見した烏丸中将成幹は、己が邸宅にかくまう。

それから十八年、今は暗報は五条橋からやや下ったところの民家をねぐらに、烏丸中将成幹の何年かに一度か二度の暗殺の依頼を実行したり、浪人姿に編み笠で顔を隠し、烏丸中将成幹の護衛役などをして暮らしていた。

その暗報に正英と良之介暗殺の命令がくだったのは、草津の街道で二人を待ち伏せする前の日のことだった。

指令を伝えにきたのは、烏丸中将成幹の片腕、宮内平蔵(みやうちへいぞう)であり、そのまま二人は京をでたのであるが、宮内平蔵のことは次に書くとして、その指令を忠実に実行し正英と良之介を気絶させた暗報は、

「ヒヒヒヒヒヒッ」

と十八年前に高尾を去るときと同じ笑いをし、一本だけ差している刀を面倒くさそうに抜く。

暗報は、風を計算しながらじっと、正英と良之介とおぼしき者たちを待っていたのだ。

二人が見えたとき、暗報は秘伝のしびれ薬の液をいれた小瓶のふたを開け、己の体全体に、外からは見えぬように着物の裏からふりまいたのだ。

正英と良之介が「くさい」と感じたのは、しびれ薬の臭いであった。

刀を抜いた暗報は、まず二、三歩前に仰向けに倒れている正英の傍らに寄った。

正英の頚動脈を断ち切ろうと、刀を首筋にあてようとした瞬間、正英の眼があき、

「俺に毒は効かぬ」

というや、暗報に点欠した。

暗報は、一瞬のことに、驚いた表情のまま刀を下にし、中腰の姿勢で固まってしまったのである。

以下125に続く

2007年4月28日 (土)

第二部琵琶湖決戦編123「高西暗報」

 高西暗報は、四十六年前、朝廷で代々お毒見役を勤める高西家の門前に捨てられていた過去を持つ。
 良之介も捨て子だが、この時代は捨て子や間引きはよくあることで、捨てられた場所が、良之介が寺で、暗報が公家の門前であったという違いがあるだけだ。
 捨て子の人生が、拾ってくれた人の生き方に左右されるのは当然だが、その意味で高西家に拾われた暗報の人生の出だしは好調であった。
 子供のいなかった高西家の当主、正報は拾った子は天からの授かりものとおおいに喜び、己の一字を与えて暗報とし、いたく可愛がった。
 六歳からお毒見役の修行を暗報に課していく。
 それは、実際の毒を味わい、さまざまな毒を「体」で覚えていくもので、程度の弱いものから徐々にはじめ、最終的には猛毒を致死量の一歩手前まで味わっていく、己の生を賭しての修行であった。
 義父高西正報は、暗報の毒を味わう力に次第に感心し、己の後継者を得た心持ちであった。
 しかし、十歳のとき、暗報の人生はまさに暗転する。
 養母おたきに子が生れたのだ。
 実子ができれば、暗報の高西家での居場所がなくなるのは、必然であった。
 正報は、暗報の毒への才能を惜しみ、武術とともに毒使いとしても有名な武林の名門、高雄山東命寺に入山させ、僧としての一生を送らせることにした。
 十八歳までの暗報は、武術と薬学の勉強が主であった。
 暗報は、その修行だけでは飽き足らず、学んだ薬学の知識をもとに自分なりに毒や毒消しをつくったり、高西家でやっていたように、毒を味わったりしていた。
 十九歳から東命寺でも実際にさまざまな毒を味わう、実践的な毒使いの修行が始まる。
 その修行はすさまじく、東命寺史上最年少の二十五歳で導師(東命寺では奥義をきわめ弟子を持つことが許される僧をさす)となった暗報でさえ、導師になるまでに三度意識不明の重体にに陥っている。
 だが、導師になったころから、暗報は、己の力を試したくなってくる。
 誰でも修行をしていくと、自分のレベルを探ったり、より向上させたくなるものだ。
 ただ、困ったことに暗報の場合、己が作った毒の効き目を試したくてたまらなくなったのだ。
 暗報は、理性と良心の力でその誘惑に打ち勝とうと
した。
 しかしその誘惑に」負けるときがくる。
 そのきっかけは、暗報二十八歳のとき、義父正報が、東命寺を訪ねたことであった。
 それは、暗報に高西家に戻ってもらえないかという依頼であった。
 なんと実子が、お毒見役の修行の最中に死んだというのだ。
 また義母は昨年死んで独り身だともいった。
 その依頼をきいた暗報は、内心ほくそえんだ。
 日本一の毒見役と勝負ができるのだ。
 この機会を逃す手はないと、義父とまったく違う思惑からその申し入れを承諾する。
 山を下りて二日目に義父正報は死ぬ。
 夕餉の汁物にいれた、暗報特性の「ダシ」の味を、義父正報は味わえなかったのである。
 以下124に続く

2007年4月26日 (木)

琵琶湖伝百二十二「乞食浪人」

琵琶湖伝百二十二「乞食浪人」

その浪人は、近江水口から大津にいたる東海道の途中、草津宿まであと一里の田舎道の路傍に立っていた。

空を見上げている。

背は百五十センチくらいか、かなり低い。

体重は逆にかなりありそうで、九十キロか。

頭は丸坊主である。

顔は大きく、またその顔の半分は額に見える。

目の焦点が定まらず、黄色い歯が覗く。

その歯も、前の二本が抜けている。

恐らく無精なのか、妙に薄汚い衣服であり、衣服なのか体臭なのか鼻をつく臭いに横を通る旅人は顔をしかめる。

一見、気のふれた男が立っているようにも見える。

四十五、六だろうか。

狂人に見えるくらいだから、正確には年がわからない。

変わり者が、

「ご浪人さん、何を見てらっしゃる」

などと声をかけても、

「ヘヘヘッ」

とよだれをたらしそうになりながら、奇妙に笑うだけで、声をかけた者のほうを見るでもなく、空を見ているだけであった。

時刻は午後二時。

11月の風が心地よい、陽光つよき日である。

旅人ものんびり昼寝でもしているのか、浪人以外、誰の姿もない道を、二人の男が歩いてきた。

井原正英と市来良之介である。

あかつき峠を下った二人は、鈴鹿山中を越え、その日の夜は野宿をして若干の仮眠をとり、近江堅田をめざしていく。

道中、二人の間で話題になったのは、甲賀伝兵衛が発した、

「井原正英か」

という正英への呼びかけであった。

あの涼単寺で正英の顔を見たのは、石黒将監しかいない。

その将監は、正英のことを知らなかった。

正英と良之介は、なんせ一六〇センチと一九〇センチの身長の違いがあり、夜とはいえ、その身長差は誰が見ても、「怪しき者」の特徴として、記憶されよう。

しかし、なぜ「名」まで分かったのか。

二人は、そのことを語り合ったが、明確な答えはでなかった。

「正英様、妙な格好の人間が」

「うん・・・・・・」

正英には、三十メートルほど先にいる、空を見上げている乞食浪人風の男の格好よりもその臭いが気になった。

「良之介は、なにか臭わないか」

「臭いますね。あの浪人、きっと、しばらく風呂に入ってないですよ。風上に立ちやがって。くちゃーい」

そう言っているあいだに二人は、乞食浪人の横を通りすぎた。

若干、正英の後を行く良之介は、あまりの臭さに耐え切れず、鼻をつまんで、

「ジロリ」

と浪人をにらみながら通過した。

五、六メートルいったところで、正英が苦しそうにうめきながら、地面に座りこみ、そのままゴロリと寝転んだ。

口から泡を噴き、白目になっている。

「正英様、いかがなされた・・・・・・」

そう呼びかけながら、眼の前が暗くなった良之介はそのまま失神し、正英の傍らに倒れていった。

「ヒヒヒヒヒヒッ」

乞食浪人が、初めて首を下げ、正英と良之介の倒れた姿を見やって、眼ヤニのついた眼を大きく見開きながら、笑い出したのである。

この浪人こそ、空海からの伝統を受け継ぐ武林の名門、高雄山東命寺派の俊英といわれ、その奥義をわずか二十五歳にして極めながら、後に破門の憂き目にあい、山を追放された稀代の毒使い高西暗報(たかにし あんぽう)の成れの果てであった。

高西暗報、このとき四十六歳。

以下百二十三に続く

2007年4月24日 (火)

琵琶湖伝百二十一「「あかつき峠の決闘その二」

琵琶湖伝百二十一「「あかつき峠の決闘その二」

正英は一呼吸し、息の乱れを整えた。

其の時、

「正英、刀を捨てろ」

甲賀伝兵衛の声が崖際からした。

その方角を見ると、良之介は崖に追い詰められ、胸と腹に三名の長槍を突きつけられて身動きのとれない状態になっていた。

(ここまでにするか。もう六人も殺してしまった)

正英は、気楽に刀を足元に捨てた。

あまりに気楽に捨てたので、甲賀伝兵衛は何か策でもあるのかと、次の行動をためらった。

もしこのとき、甲賀伝兵衛が何のためらいもなく、正英に長槍を突き出せば、正英は絶命したであろう。

しかしこの一瞬が、伝兵衛と正英の生死を分けた。

「ズドドーン」

鉄砲の発射音が二回、正英の背後から聞こえ、甲賀伝兵衛は額を打ち抜かれて即死する。

もう一発は、良之介を囲んだ甲賀衆の一人の後頭部をつぶしていた。

突然の新手の襲撃に、残りの二人の甲賀衆はたじろいだ。

そのスキを見逃さず、良之介はその二人を谷底に突き落とした。

(またこの世に生かされたか)

正英が、嘆息しながら憂鬱そうに振り返ると、馬に乗った雑賀孫六が笑いながら近寄ってきた。

その後に、やはり馬に乗ったお耳役の与平と勘太がつづいている。

孫六の手には雑賀衆愛用の二連銃(銃身が短い火縄銃で銃口が二つあり、一度に二発撃てる銃)があった。

「孫六様、久しぶりに鉄砲の技を拝見しましたぞ」

正英がいうと、

「ハハハ、そうか。わしは、日本一の鉄砲集団雑賀衆の者ぞ。本来の武術を見せたまでよ。腕はまだ衰えておらぬ」

誇り高き雑賀衆の答えを孫六はした。

「孫六様、ありがとうございました」

良之介が駆けてくる。

「良之介、長槍の間合いにとまどったか」

「孫六様、その通りです。どう動くか迷っている間に、囲まれてしまいました。勉強になりましたよ。でもなぜ孫六様がここに」

良之介の屈託のない答えに孫六の顔もほころび、

「この国境(くにざかい)を見張る役目の与平と勘太に感謝しろよ。長槍を持った妙な者共が近江との国境をうろちょろしていると、この二人がいうてきてな。昨晩の話から、甲賀信楽衆がお前たちを待ち伏せしているのではないかと、急ぎ馬を走らせてきたわけだ」

と事情を説明した。

「ありがとうございました」

孫六の言う通りに正英と良之介は、与平と勘太に感謝の言葉を述べた。

馬上で与平と勘太は、頭をかきながら照れくさがる。

孫六は顔付きを変え、正英と良之介に言葉をかける。

「お前ら、このまま彦根に行くのは危険すぎるぞ。違う道から彦根に入るべきだが、どこか心当たりはあるか」

「ウン、あります。ただ二日ほど潜入が遅れるかも」

正英は即答した。

「二日くらい遅れてもどうということはない。それでは、早速行け。われらは、この者たちの死体を片付ける」

孫六に促され正英と良之介は、元の道を今度は下っていった。

良之介は、歩きながら問う。

「正英様、どこに心当たりがあるのですか」

「今から、関(せき 

三重県亀山市

(旧・鈴鹿郡関町)に向かい鈴鹿峠を越え、近江水口(滋賀県甲賀市

水口町

)から東海道を上って、大津に行き、そこからお香のいる近江堅田(

滋賀県大津市堅田

)をめざす。堅田からは船で琵琶湖を横断し、彦根にはいる」

正英は、正面を見据えながらそういった。

以下百二十二に続く

2007年4月23日 (月)

第二部琵琶湖決戦編120「あかつき峠の決闘その一」

第二部琵琶湖決戦編120「あかつき峠の決闘その一」

伊勢桑名から北上し近江彦根に到るには、美濃大垣を通過せねばならないのは、すでに「美濃街道」の章で述べたが、近江と伊勢を一挙につなぐ道もあった。

それは乗掛峠越えの道である。

現在では三重県と滋賀県を結ぶ国道三〇六号線が整備され通りやすい道になったが、当時は「胸突き八丁」といわれた難所で、伊勢の多度から北西に向かい、鈴鹿山脈の釈迦岳や竜が岳を左に見ながら登って下れば近江の多賀にいたる。

多賀からはすぐに彦根である。

孫六の命で今度は直接に彦根にむかうルートをとった。

難所をいかせるのも罰のひとつだそうな。

乗掛峠は別名あかつき峠といわれる。

正英や良之介の足でもきついくらい、この峠はかなりの厳しい勾配であり、普通の人の足ならば、桑名からは「あかつき」のころに出立せねば、峠がきつすぎて、とても昼間のうちには越えられず、野宿を強いられるということから、「あかつき峠」の異名がつけられたのである。

彦根への再潜入を命じられた井原正英と市来良之介は、その峠の急な上りになっている蛇行する道を淡々と歩いていた。

正英は、己の影から時刻をわりだし、せいぜい午前九時くらいかと思った。

桑名を二人がでたのは、午前六時。

まさに「あかつき」であった。

昨晩の忠勝、孫六、梶金平との話し合いで、石田三成存命の噂の真偽定かならず、再度彦根に行くべしとの結論がでたのだ。

早朝六時の出立ということで話し合い終了後、正英が家に帰ると、すでにお香は堅田の実家に行くということで立ち去ったあとだった。

翌朝、雑賀孫六が城下の外まで正英と良之介を見送る。

孫六は、彦根潜入の際の新たな隠れ家を書いた紙を正英に渡した。

そこには、地図と有田屋一歩十蔵(いっぽじゅうぞう)という文字があった。

さらに、お前らを取り逃がしたことで井伊家は、かなりの警戒体制を敷いているであろうから、死ぬ覚悟で彦根に潜入せよとの厳しい注意があった。

正英も良之介も覚悟を決めての、あかつき峠越えである。

あかつき峠は全体に、あまり樹木は多くない。

道はその少ないいくつかの木々の中を縫っていた。

岩が多く、それを伝わって清水が、わずかながら流れ落ちている。

二人は前屈みになって、道を上り続けた。

直角に近い曲がりくねった道を過ぎると、急に道が広くなる。

左側が山の急斜面で、右側は崖であり足を滑らせれば、深い谷が待ち受けている。

二人は、立ちどまった。

崖を背後にして、三つの人影が並んでいるのを見たからである。

さらに左側の路傍に四人の男が並んでいる。

正英は、後ろを振り返った。

いつの間にか三人の男が上って来ている。

全部で、十人。

全員が腰に長脇差を落し、手には長槍を持っている。

甲賀信楽衆である。

「井原正英か」

路傍の四人の中の一人が前に進み出て野太い声を張り上げた。

赤ら顔の大男で、明らかに甲賀伝兵衛である。

「甲賀伝兵衛か」

正英は、落ち着いた声で言った。

「そうだ、甲賀伝兵衛だ。もうこれ以上、峠道を歩く必要はないぞ。涼単寺ではお前らを逃がしたが、今度はここで死んでもらう」

「死ぬのはどっちか分からぬぞ。弥助さんの仇をとる手間が省けた。のこのこ出て来てくれて、こちらこそ礼をいうぞ」

良之介は伝兵衛に負けぬ啖呵をきった。

「フッ、何とでも言え。お前たちは死ぬのだ」

(無益な殺生はしたくない)

正英は思った。

しかし、甲賀信楽衆も良之介も眼をぎらつかせ、人殺しをしたくてたまら ぬ風情である。
「甲賀衆よ、いつ死んでも良いつまらぬ命だが、多少の手向かいはさせてもらうぞ」
 腹を決めた正英は、そう言うや、崖際の三人に向かって走り出す。
 後ろの三人はその正英を追う。
 しかし、正英の行動は己の近くに敵を呼び込むための策であった。
 突如反転すると、背後から迫り来る敵の一人に、電瞬一撃の抜刀を浴びせ る。
 抜刀された男は首の皮一枚を残して絶命した。
 正英の居合いのすごさに圧倒された残りの二人は、すでに敵ではなく、腹や胸を裂かれてあっという間に地面に倒れ伏れ動かなくなる。
 後方の三人を制した正英は、前方に駆け出す。
 崖際の三人が、槍を構えながらむかってくる。
 正英は、左側の山の急斜面を一気に駆け上がろうとする。
 三人のうちの一番近くの男が、長槍を突き出した。
 正英は繰り出される槍をかわし、飛び上がってその槍の柄のわずかな幅の上に乗る。 

己の槍の上で起こった、この世のものとは思えぬ妙技に眼を剥き驚愕

する男の首を気合一閃、正英は横殴りに刎ねた。

すさまじい勢いで首のあった場所から血が噴きあがっていく。

撒き散らされる血にも構わず、正英は今正に殺した男の槍が地に着く前に、崖肌へと跳んだ。
 その着地した瞬間を狙い、他の二人の槍が同時に突き出される。
 斜面に足をつけた正英はその反動を利用し、手毬が弾むがごとく、槍の方向に一回転し、二人の男の背後にまわった。

男たちが振り向こうとしたとき、すでに彼らの命はあの世に飛んでいったのである。


 刃の血を払い、納刀する音が、天へか地へかの黄泉路を歩き出した名も知らぬ男たちへの手向けであった。

以下121に続く

2007年4月22日 (日)

琵琶湖伝百十九「忠勝と孫六及び金平」

琵琶湖伝百十九「忠勝と孫六及び金平」

正英と良之介は桑名城に、お香は一人で正英の住居にむかった。

城の近くにある雑賀孫六の家に、二人が立ち寄り、彦根でのことを話すと、城の二の丸の広間で待てと指示がある。

三十分ほど広間で座っていると、忠勝と孫六、それに梶金平(かじきんぺい)がきた。

上座に忠勝が座り、忠勝から一段下がったところの左に金平、右に孫六が座った。

正英が孫六に言った話を忠勝に再度しようとした瞬間、いつの間にか、正英の横にきた忠勝が、正英に鉄拳をふるい、正英は吹っ飛ばされた。

「言い訳をするな」

忠勝が正英をしかった。

「殿、正英はまだ口を開いておりませんが」

梶金平が、苦笑しながらいう。

「馬鹿者。顔を見たら、今から言い訳しまーすって、書いてたんだよ。先手だよ、先手。先手を打ったのだ・・・・・・おい良之介、お前は腕立て伏せ千五百回。数えろよ、このこんぺい野郎」

「なんだと。わしゃ、こんぺいじゃない、きんぺいじゃ。おい良之介、腕立て伏せはじめーい。よーし、いっかーい」

良之介は腕立て伏せを始め、梶金平が回数を数えだした。

正英は、忠勝の鉄拳に意識が朦朧となったが、なんとか元の位置に座り、彦根での件について報告した。

忠勝は眼をつぶり、じっと正英の言葉に耳を傾けていたが、弥助の死までを聞いて、眼を開けた。

「あとは、彦根を出たわけだな」

「はい」

「その三成に似た者の死亡は確かめたのか」

「全身血だらけで、眼をカッと見開いたまま動かず、どう見ても外見的には・・・・・・ただ、実際、体には触れていません」

「孫六はどう思う」

「何かわざとらしい。あまりに偶然が重なっている気がします」

「わしも同じだ。正英が庭に入り、動き出したときに、三成似の僧が現れ、すぐに殺害される。どうせ三成は関ヶ原のあと首をはねられ、この僧も死んでしまった。あーあ、彦根まで無駄足だったなぁ。くるんじゃなかった。おつかれさーんと・・・・・・思わせたい臭いがプンプンだ。小細工しすぎて、逆に、三成のやつ、生きているんじゃないかと、勘繰りたくなった」

「忠勝様、部屋が血の海だったのも、犬の血でもまけば済むし、その上に寝転んで眼でも剥いておけば、瞬間的には死んだだように見えますな」

「孫六よ、いうまでもない。そんな小細工を真に受けて、あわてふためき、人を殺すような馬鹿がいるんだからな」

正英は、忠勝が己のことをいっていると気づき、自分の愚かさを自覚し、情けなくなり、涙が溢れ出した。

「もう、正英、勘弁してくれ。泣いちゃいけん。お前が正しいかもしれんのだ。なあ、涙をふくのだ」

忠勝が、もっと正英を泣かせようと、残酷にいたわりの情をしめす。

「そうだぞ正英。お前の努力や優しさを否定しようなどと思ってはおらぬ。泣くでない。泣くでない」

孫六も正英に、さらに追い討ちをかける。

「ワーッ」

とうとう正英は声を挙げて泣きだしたのである。

その傍らで、良之介の腕立て伏せの数を数えていた梶金平が、忠勝に報告する。

「殿」

「どうした」

「良之介、最後に勢いあまって千五百一回になりましたが」

「なーにぃ、良之介、本当か」

「はい、思わずもう一回しちゃって」

「仕方ないやつだな。わしの命令にそんなにそむきたいのか。千五百回とはいったが、千五百一回とはいっておらんな。主君の命に従わぬものは、普通なら切腹だぞ。しかしお前はまだ若い。わしも鬼ではないからな。もう千五百回してよね。それで許してあげるから」

忠勝の優しき命令を受け、再度、腕立て伏せを始めた良之介の涙が、ポタリポタリと畳に落ちていく。

(涙は心の汗だ)

まったく筋違いのことを考える、梶金平であった。

以下百二十に続く

2007年4月21日 (土)

琵琶湖伝百十八「柳生七子」

琵琶湖伝百十八「柳生七子」

柳生七子のいわれは、以下の通りである。

大和の国柳生の里で、柳生新陰流の祖柳生石舟斉のいうことすらきかない暴れ者の七人の処遇に石舟斉やその子柳生宗矩(むねのり)は困っていた。

その折、関ヶ原で家康が勝ち天下の流れは決まる。

そこで宗矩は家康に頼み、「上方御免状」という近畿地方通行自由の許可状をだしてもらい、「上方御免状」をその七人に与えて、常に近畿を徘徊し、治安の維持にあたるように命じた。

大和の国からもめずに七人を追い出すための宗矩の策であったが、七人もその役目を喜び、近畿各地に出かけては、盗賊や山賊を自由に捕らえ、殺していく。

ここに柳生七子が誕生したわけである。

ただ御免状を盾に傍若無人の振る舞いも多く、七人は行く先々で面倒を起こすので、近畿地方の人々にとって、眉をひそめる存在であった。

正英は柳生七子ときいて、

(厄介な奴らと出会ったものだ)

と思ったが、顔にはだすはずもない。

「柳生七子の皆様とは、今日初めての対面でござるが、無礼がすぎましょう」

正英は堂々と正論をいった。

乗月源三は、深々と頭を下げた。

「そこの倫敏と申す女は、男以上に気の短い女。それでもこの所業は、いきすぎでござる。拙者が切り捨ててもよいのでござるが、未熟者の妄動とお思いになり、今からの修行に期待するとして、今日のところはお許し願えまいか」

慇懃な物言いを乗月源三はした。

ただ、その物言いの中に正英は、

(絶対に頷いてもらうぞ)

という威圧を感じた。

柳生七子は、柳生北斗陣という陣形で戦うそうな。

その噂を正英は思い出していた。

(いっそ、許さず、柳生北斗陣を拝見しようか)

内心、正英の武術の虫がうずいた。

しかし、その虫はつぶすしかない。

桑名に、急ぎ戻るのが己の勤め。

「お香さん、その女を逃がしてください」

お香は正英の意を汲み、落ちていた短刀を拾い、遠くに投げたあと、油断なく縄を解いてやった。

倫敏は、

「キィーッ」

と奇声を発しながら、大垣方面に走り去った。

「再度、あやまるしかない。縄を解いてもらえば、まずは皆様に、特にその背の高い若者には心よりあやまるべきを、あの倫敏め、何もいわずに逃げるとは。情けない下郎でござる。面目ない」

乗月源三がふたたび頭を下げると、他の七子も全員頭を下げた。

良之介が、

「これで水に流して何もなかったことに」

といった。

「噂通りの狼藉者たちだな」

柳生七子の後ろ姿が夕闇に消えていくのを見送りながら、正英はつぶやいた。

晩秋の昼間から、冬の気配を感じさせる夜へと時刻はかわりつつある。

正英、お香、良之介の三人が、桑名の城下町に入ったとき、すでに町の方々で提灯に明かりがともされていた。

以下百十九に続く。

2007年4月19日 (木)

琵琶湖伝百十七「流れ雲」

琵琶湖伝百十七「流れ雲」

巡礼姿の女は、後方に飛んで着地した良之介の胸めがけて、両手を前に突き出し飛んでいった。

まさに己の体を弓矢の如く、いや弾丸の如くして、宙を飛んでいったのである。

良之介は女のその体技に驚きあわてた。

一直線に、良之介に向かって飛んでいく女の右手には、いつのまにか短刀が握られていた。

「アッ」

気づいた正英は言葉を発したが、女をとめるひまはなかった。

良之介は、まったく女が突き出す短刀に気づかず、そのまま短刀を胸に受けてしまう。

    ・・・・・・。

正確には、短刀の先端を受けてしまった。

お香が、すばやく縄を投げて、女の両手首に巻きつかせ、

グイッ

と引いたのだ。

女は、失速し地面にたたきつけられかけるが、なんとかふんばり、片ひざ立ちで良之介にむかい、首をあげた。

チクッ

胸の痛みに気づいた良之介は、己を殺そうとし、今己を見上げる女をみた。

笠の上から垂らされた薄い布で女の顔は、はっきりと見えない。

お香が、女の背後に回り、縄を女の体全体にまわし、締め上げた。

女は痛みから短刀を落とすとそのまま両膝をつき、身動きできなくなった。

「あんた正気なの。道を譲るかどうかで、人を殺すの」

お香は女をなじり、縄をさらに締めた。

「ウッ」

女のうめき声がする。

「お香、許してやれ」

真横にきた正英がお香に声をかけた。

お香が振り向くと、編み笠の男以外の五人がすでに抜刀しこちらを見ている。

お香の眼には、抜刀した者たちの遠くにある銀杏の樹が映っていた。

鮮やかな黄金色であった。

空は、晴れている。

二つ三つと、柔らかそうな雲が浮いている。

秋も終わろうとしている十一月の流れ雲であった。

あと一時間も経てば、この空は赤くなり、そして薄墨色となり、闇となっていく。

そんな時間に、こののんびりとした風景の中で、正英とお香と良之介は、争闘の場に立っていた。

正英は、「揉め事」を起こしたくないのだ。

今、すべきは、桑名に戻ることである。

その結論が、

「許してやれ」

であった。

「刀を納めろ」

編み笠の男の声がした。

抜刀した五人は、刀を鞘におさめる。

男は笠をとった。

浅黒い顔で、彫りが深く整っている。

凍りついたように冷たい眼差しが人を威圧する。

四十をすぎて、間もない年輩であった。

「拙者は、乗月源三(のりづき げんぞう)でござる。柳生七子(やぎゅうしちし)が頭領で、他の者は七子の面々、その女は倫敏(りんびん)と申す」

以下百十八に続く

琵琶湖伝百十六「巡礼姿の女」

琵琶湖伝百十六「巡礼姿の女

正面からくる者たちは、一人が先頭に立ち、あとは二人ずつ縦に並ん歩いている。

男六人に女が一人である。

先頭の者は深編み笠をかぶり、他の男は何もかぶっていないが、、最後尾にいる女は、白い巡礼着に、すげ笠をかぶり、赤のくけ紐でその笠を顎に結んでいる。またすげ笠からは、うすい布がたらされていて、顔をおおっているので、はっきりと顔は見えない。

なぜか、先頭の編み笠の男は正英の方にむかって歩いてくるので、正英が避けると、編み笠の男も同じ方向に動く。

道幅は3メートルほどもあり、そう狭くはない田舎道である。

周囲は田畑が広がっている。

正英が男を避けようと動くと、男も7また同じ方向に。

それが数度、繰り返される。

さすがに正英も、閉口し、作り笑いを浮かべながら編み笠の男に、

「面目ない。道の端に我らは寄りまする」

と七人組を先に行かせようとする。

道幅が広いのだから、そこまでいう必要もないと正英は思ったが、男の底意がわからず、面倒に巻き込まれたくもなかった。

「いや、こちらのほうが面目ない。どうぞどうぞ」

男を先頭に七人組も道を譲ろうとする。

ここで正英が、

「それなら、どうも」

と気軽に応対すればよかったのだが、

「いや、そちらが通られよ」

といったので、編み笠の男は意地になったのか、

「いや、そちらが」

と返してきて、押し問答のかたちになった。

良之介が笑いながら、二人の間に入った。

「どうぞ、お先にいってください」

良之介としては気を利かせたつもりだったが、巡礼姿の女が、

「お前に何の関係がある」

とつぶやくようにいいながら、スススッと良之介に近寄り、わずか三十センチくらいの間合いから、飛び前蹴りを繰り出した。

その蹴りは、正確に良之介のアゴを捉えていたが、一瞬早く、良之介は後方に飛んで、その蹴りをかわす。

読者よ前蹴りと軽く見るなかれ。

これは作者東洋の実体験であるが、昔、剛柔流空手の猛者と対戦したとき、わずか10センチの間合いで、その猛者の前蹴りは垂直に伸び、わが額はその者の足の裏でしたたかに叩かれ、卒倒したことがある。

達人の前蹴りは、下手な回し蹴りより破壊力を持つ。

良之介も、

「これ位で、真剣になるかよ」

という油断はあったであろうが、間一髪逃れなければ、アゴの骨は砕かれたであろう。

巡礼姿の女の蹴りは、それほどのものであった。

以下百十七に続く

2007年4月17日 (火)

琵琶湖伝115「見返りお香」

琵琶湖伝115「見返りお香」

良之介は、跳躍して正英を追い、手刀で縄を切ろうとする。

その一瞬、縄が緩められ、正英の首から放れ、縄は投げた主の元に戻っていった。

良之介は、戻っていく縄の方角を見た。

その先にいたのは、意外にも二十歳前後の小娘であった。

背は一六五センチくらいか、やせてはいるが、いかにも敏捷そうで、切れ長の眼は整った顔立ちに、良い意味でアクセントを与えていた。

「お前は、甲賀信楽衆か」

良之介は眼を血走らせて怒鳴った。

昨夜の弥助につづいてのことで、良之介の心根はまだ収まっていなかった。

小娘が返事をしないうちに良之介は、跳んだ。

飛び蹴りを小娘に食らわせようとしたのだ。

良之介の飛び蹴りがこのやせこけた娘の顔面にでもあたれば、首と胴体が離れることになったであろう。

しかしこの娘は、良之介が飛んだ動きに合わせるように、跳躍して、空中で良之介の頭を飛び箱代わりに使い、良之介の頭に両手を置くと、軽々と良之介を越え、倒れ伏した正英の背後に降りた。

正英は娘が降りたのを見て、のんびりと土がついた衣服をはたきながら、立ち上がる。

「その小娘に油断めさるな」

良之介の声がひびく。

正英は右手の手の平を大きく前にだし、

「良之介、落ち着け、この娘はわしの許嫁(いいなずけ)だ」

と意外なことを口にした。

良之介は一瞬、耳を疑った。

ただ正英の背後で小さくなっている小娘の姿に、敵ではないと確信し、ゆっくり二人に近づいていった。

「今、許嫁といいましたよね。二人は結婚を誓い合っているんですか。じゃなんで、未来の旦那の首を縄で絞めたり、引きずったりするのですか。それにどうみても、おっさん狸(正英は一六〇センチ八〇キロ)に子狐ですよ。なんでそんなおいしい目に正英様はあうんですか」

「おまえ、うらやましいのか」

さすがの正英も良之介の失礼な物言いに頭にきて、大声をだす。

怒られて良之介も言い過ぎたことを正英にわびる。

「英(ひで)さん、この背の高い男の子、こわい」

と娘がいう。

「お香(こう)さん、心配しなくていいよ。きのうからいろいろあって、気がたっているんだよ。良之介といってね、いい奴だ。年は今年で二十一」

「あ、じゃ、私がお姉さんだ。良さん、初めまして。お香っていいます。今年で二十二。よろしくね」

気楽にお香から挨拶され、かえって良之介はとまどったが、

「いえ、こちらこそ、良之介といいます。失礼なことばっかりいって、申し訳ありませんでした」

とお香に素直にあやまった。

三人は桑名にむかい、歩きだすことになったわけだが、その間に良之介が聞いた話は、お香は諸国を気のむくままにさすらっていて、気がむいたら正英の家にも行き、何日も滞在したり、すぐに出て行ったりするという。

旅の費用は正英からもらうのかと聞くと、スリをして稼ぐと平気な顔でいう。

スリの世界では、見返りお香と呼ばれ一目置かれているそうな。

故郷は近江堅田(現在の

滋賀県大津市堅田

)であり、数年ぶりに実家を訪ねたくなり、その途中正英の家に寄ろうとして、偶然出くわしたということである。

投げ縄の件は、結構二人になったときは、縄で遊んでいるということで、

「どういう趣味なんや」

と良之介は突っ込もうとしたが、個人の趣味にあれこれいう必要もないかと控えた。

三人で和気藹々(わきあいあい)と話しながらの道中は、桑名までの時間を、あっという間の時間とした。

あと二キロで桑名の城下に入るというところで、良之介が笑いながら顔をあげると、向こうからやってくる七名の者の姿が見えた。

以下百十六に続く

2007年4月15日 (日)

琵琶湖伝114「関ヶ原の夜を走る」

琵琶湖伝114「関ヶ原の夜を走る」

「あぁ」

良之介が、悲しげな声を発した。

弥助のほうに戻ろうとする良之介の腕をつかみ、正英は、

「止まるな。我らが本多家の者とわかったら、本多と井伊の争いとなる。忠勝様の立場がなくなる」

と必死でさとす。

良之介はそれでも、ともに善良寺で暮らし、竜雲和尚の武術の門下生として

兄弟子にあたる弥助を見捨てては置けないと、正英に何度もいい、戻ってくれと懇願する。

正英は、子供のようになった良之介のスキを見て、点欠(内功をある程度習得した者が使える技で、相手の経穴(ツボ、穴道)を突いて気の流れを遮断し、行動を不能にしたりすること。経穴の位置によっては、止血や体内の毒を外にだせたりもする)し、良之介を行動不能の状態にすると、そのまま背中に担いで走り続けた。

良之介の弥助への情はわかる。

しかしそれ以上に、本多忠勝への思いが正英には強いのだ。

忠勝に、そして本多家に迷惑をかけぬためには、良之介の情を聞き入れる余裕などなかった。

良之介を担ぎ、正英は走りに走った。

井伊家の領地を抜け、関ヶ原に出て、大垣へ。

すでに午前五時。

大垣を抜けたところで、良之介の点欠を解いた。

.良之介は、気持ちが落ちついたのか、正英に別に不満をいわず、それどころか、

「取り乱して、申し訳ありませんでした」

と謝った。

「お前は、涼単寺で回し蹴りを食らわせ失神した石黒将監を殺そうかと、俺に冷たくいったな。そのお前が弥助の死には動揺した。敵か味方かで人間は、優しくも冷たくもなれる。しかし、本来、人はすべての死に愛情をもって接するべきであろう。敵か味方かで死を考えてはならんと思うが」

正英は、良之介が死を軽く見ているような気がして、説教じみたことをいった。

「あの男は石黒将監というんですか。正英様、命の意味とか愛情なんて考えているから、殺されかけたんですよ。身に降る火の粉ははらうだけですよ。正英様の意見として受け止めますが、それ以上のものとは考えませんよ」

良之介は、口調は丁寧だが薄笑いを浮かべ、露骨に正英の意見を軽視するそぶりをみせた。

正英は、命の大切さをこの若い武術家に今教えても、聞く耳は持たぬであろうと思った。

自分も良之介と同じくらいの年齢で、林崎甚助から活人剣をいわれ、己の武術の至らなさに気づくまでに何人の人を斬ったかわからない。

「命のことなど考えるから死に掛けた」

という良之介の言い分も事実である。

生きるとはなにか。

生命とは。

死とは何か。

良之介自身が、己の武術をもって、他者との戦いの中から、その意味を見出すしかないのかもしれない。

先輩風を吹かす必要もない。。

とにかく、忠勝様に彦根潜入失敗の報告をするために、桑名に戻るしかないのだ。

無言で二人は歩き続ける。

すでに桑名領に入り、多度柚井を通過しかけた時、ヒューッと二人の背後で音がした。

若干、先を歩いていた良之介が振り向くと、投げ縄に首を絞められ、そのまま引かれて、後方に飛ばされていく、正英の姿があった。

以下115に続く

2007年4月14日 (土)

琵琶湖伝113「人間凶器」

琵琶湖伝113「人間凶器」

正英は死を覚悟した。

そして死ぬのは悪くないと思った。

すでに正英は幾多の合戦でまた忠勝の護衛役として、何人もの敵と戦い、数え切れないほどの人を殺してきた。

今から生きても、また何人かの人を殺すだけだ。

そろそろ殺される側に立っても良い時だと考えたのだ。

石黒将監の刃が上段から下ろされ、まったく無防備となった正英の脳天を叩き割りかけた瞬間、正英は石黒将監の顔が左半分なくなり、右半分に偏っていくのを見た。

控えていた良之介が飛び出してきて、石黒将監の左ほほに、強烈な飛び回し蹴りを食らわしたのだ。

石黒将監はそのまま斜め後方に吹っ飛び、失神する。

「正英様、大丈夫でございますか」

良之介は正英を心配する。

「すまん。弱気になってしまった」

正英は正直に答える。

「今から、どうされますか」

「うん、失敗だ。逃げるぞ」

気を取り直した正英の決断は速かった。

自分たちの行動があからさまになった今、隠密裏の情報活動ができるはずもなく、彦根にいること自体、無意味である。

「この男、絞め殺しましょうか」

良之介は.冷酷にいうと 倒れている石黒将監のほうに向かう。

「その男の顔は大丈夫か」

「フッ、ちゃんとありますよ」

「なら、よい。そのままにしておけ」

正英は良之介に指示しながら、この若者のすさまじい蹴りの破壊力が、石黒将監の顔を一瞬消し去ったように見せたのかと思うと、良之介の体自体の凶器性にぞっとするものを感じた。

渡り廊下から庭に下りる三名の人影が見える。

「行こう、良之介」

正英は、塀に向かい動いた。

良之介もあとにつづく。

適当な所で、二人は跳躍し、塀の外に下りた。

寺の外に出た二人は弥助を探す。

二十メートルほど後方に弥助はいた。

「弥助さん、失敗した。逃げるぞ」

正英は弥助に声をかけ、走り出す。

良之介は正英と並走し、二人の後を弥助が追う。

「ドスッ、ドスッ」

正英と良之介の前方の地面に数本の長槍が突き刺さった。

正英たちに気づいた、甲賀信楽衆が放った槍である。

正英は止まらずに抜刀し、前方をふさいだ槍をなぎ払い前進した。

そのとき、すぐ後方で、

「ウッ」

とうめき声がし、何かが倒れる音がした。

正英と良之介が走りながら振り向くと、甲賀信楽衆の長槍に背中を貫かれ、倒れ伏す弥助の姿があった。

以下114に続く

2007年4月12日 (木)

琵琶湖伝112「井伊家石黒将監」

琵琶湖伝112「井伊家石黒将監」

障子を開けると、八畳ほどの部屋は、一面血の海であった。

その血の海の中央に、仰向けになり、頭を正英の方に向け、天井をにらむかのように眼を見開いたままの死体があった。

頭か首を切られたのかそのまわりに特に血が多い死体である。

急ぎ正英は、即死した僧侶の顔をのぞいた。

真っ赤に血で染められた死体だが、顔は血でそう汚されてはいなかった。

    ・・・・・三成・・・・・・石田三成。

その顔はまさに石田三成であった。

生きていたのか。

他人のそら似か。

世の中には似た顔の人間が、三人はいるという話もある。

正英は、どう判断してよいかわからなかった。

そのとき、渡り廊下側の襖(ふすま)が開いた。

「おぬしが、殺したのか」

襖を開いた者が、どなるような声で正英を問いただした。

すでにその声の主は刀を抜いている。

「拙者は、井伊家侍大将、石黒将監(いしぐろしょうげん)。おぬしは何者だ、おぬしが御坊を殺したのか」

さらに正英を問い詰める。

石黒将監といえば、旧武田家臣団の一人であり、井伊家の中では剛の者として知られている。

正英は、この状況で言葉を発しても無意味であることは了解していた。

「いや、その・・・・・・・」

と石黒将監にわざと声をかけ、石黒将監が

「その・・・・・・何だ」

と正英に反応した瞬間、正英はうしろむきざまに庭へとんだ。

石黒将監は猛然と追いすがろうとしたが、部屋一面に広がる血の海に足元をすくわれかける。

血はすべりやすいのである。

当然、正英は計算済みであった。

庭に下りた正英は、走りながら、

「ホウッホウッ」

と良之介のいる方角にむかい、ふくろうの鳴きまねをした。

その時、正英の右前方の闇から一条の白い光が見えた。

正英は反射的に、その方角にむかい、抜刀した。

一条の白い光は、闇の向こうの敵の抜刀であった。

正英の鞘(さや)に刀が納まったとき、無言で倒れていく敵の姿があった。

即死であった。

しまった、石黒将監以外の者がいたのか。

正英は己の腕を恨んだ。

もし真の達人なら、相手の刃先をかわし、当て身をくらわすこともできようし、もし正英ほどの腕でないなら、抜刀はせずに逃げたであろう。

いずれにせよ、俺は人を殺したのだ。

正英は悩んだ。

しかし、正英よ、今おのれの腕を嘆くときであろうか。

足音に気づき正英が振り向いたとき、すでに庭に下りた石黒将監の刃(やいば)が、正英の頭上に振り下ろされていたのである。

以下113に続く

2007年4月11日 (水)

琵琶湖伝111「闇の中」

琵琶湖伝111「闇の中」

寝静まった真夜中の深い闇の中で、正英と良之介は涼単寺の塀を乗り越え、寺院の庭の隅に降り立った。

それに合わせるかのように雲からあらわれた蒼白い月の光は、芝草の上や草むらに流れていく。

真新しい石畳の伸びていく方角に、寺院の建物があり、浮彫の円柱や、渡り廊下や、窓などがその姿をまざまざとあらわしていた。

夜のかすかな風が墓地の方から静かに吹いてくる。

「良之介、お前はここで待て。ふくろうの声がしたら来い」

そういって、正英は

「ホウッホウッ」

とふくろうの鳴きまねをした。

正英は一人で動くほうが、情報収集はしやすいと考えた。

ただ正英も後ろに眼はない。

良之介をとどめさせ、己の後ろの眼としたのだ。

三成か否かの確認をすべき問題の僧の部屋は建物の右端、その部屋の裏側に墓地の入り口がある。

右端の部屋は八畳ほどの広さか、庭に面して縁側があり上がれば障子で、渡り廊下で建物とつながっている。

僧が起きていれば屋根裏にはいりこみ、天井から確認しようとも考えたが、闇の世界が広がるだけであり、僧のことは明日以降にして、まずは井伊直政の骨を確認し、場合によっては、何本かを持ち帰ろうと思った。

方針を固めた正英が、前進をし右端の部屋の前まで来たとき、渡り廊下を部屋にむかい歩いてくる影が見えた。

庭に伏した正英は、上目づかいに、その影に眼を凝らした。

僧の姿をしている・・・が・・・その顔はまさに・・・石田三成であった。

他人のそら似、としかいいようがない。

いや、この闇が己に幻覚をみせているのかもしれない。

その僧は部屋にはいると、灯りをつけた。

僧の影が大きく障子に映る。

正英は方針を変えた。

僧の確認のための絶好の機会を逃す必要はないのだ。

急ぎ天井裏に忍び込もうと屋根に跳躍しようとした瞬間、

「ギャーッ」

と部屋から断末魔の悲鳴があがり、大きく映った影が倒れていったのである。

思わず立ちすくんだ正英だが、次の瞬間、反射的に縁側を駆け上がり、障子を開けた。

以下112に続く

琵琶湖伝110「涼単寺潜入」

琵琶湖伝110「涼単寺潜入」

正英は、弥助から三成に似た僧の部屋を地図で教えてもらい、寺院のひと続きの建物の右端、その部屋の裏側に墓地があることを頭にいれた。

事態が、三成存命の方向に流れていることを感じたた正英は、緊急を要する状況と判断し、これからの予定を良之介と弥助に伝えた。

今夜早速、涼単寺に潜入すること。

時刻は午後十一時過ぎ、三人でそろっていくが、弥助は涼単寺の外までの道案内と寺の外での見張り役で、中には正英と良之介が入ること。

涼単寺境内でのことは、その場の状況で臨機応変に、正英が良之介に指示すること。

以上を正英が述べると、弥助が、

「当然ですが、明日かあさってまではかかる仕事ですよね」

と正英におだやかにきいてくる。

「そうだな、今夜だけで簡単に済むなどと思わぬのが、自然であろう。あさってくらいまでは考えないとな」

正英が弥助にいうと、弥助は、仕入先の問屋にあさってまで休むことを言いにいきたいと言い出す。

正英は、それは当然のことわれらも早めの食事をとり一眠りすると、弥助に答え、弥助は問屋に行き、正英と良之介は養老屋の楠真由美似の仲居の握ってくれた握り飯を出して食い、そのまま仮眠した。

午後十一時前に弥助が二人を起こし、弥助の案内でふたりは涼単寺に向かった。

涼単寺は弥助の家から右手の道を二〇分ほどまっすぐいったところで、人家はまばらであり、竹林が涼単寺の右となりには広がっている。

涼単寺そのものは、縦も横も三百メートルほどの敷地のなかにある大きな寺院であった。

正面の入り口には、四名の侍の姿が見え、寺の周りは一定の間隔で長槍を持った者たちが五名一組で動いていた。

甲賀信楽衆である。

正英たちは、涼単寺の長く続く塀の中ほどから、二メートルほどの塀を飛び越えて境内の庭の辺りに下り立とうと、塀から三十メートルほど離れた地面に伏し、闇とひとつになって、機会をうかがう。

「正英様、普通の寺ならこのような警戒を絶対にしませんよ」

寺育ちの良之介がささやくようにいう。

正英はそれを無視して、弥助に

「三成ゆかりの甲賀組がこの寺の警護をしていること自体、この寺は尋常な寺ではありませんね」

と弥助にいう。

「たしかに」

弥助は、ひとこと答える。

甲賀衆が目標の塀を通過したとき、正英は、弥助にここで待機することを命じ、

「いくぞ」

という気持ちを込めて、良之介の肩を軽くたたいた。

その瞬間、正英と良之介の体は、宙にフワリと浮き、そのまま、涼単寺の塀の中の人となったのである。

以下111に続く

2007年4月 8日 (日)

琵琶湖伝一〇九「彦根の弥助」

琵琶湖伝一〇九「彦根の弥助

まだ陽の高い午後三時過ぎに箱根に着いた正英と良之介が、目当ての弥助の家を探し当てるのは、難しいことではなかった。

孫六の地図と良之介が前に来たときの記憶を頼りに着いた弥助の家は、小さな店が軒を並べる一角にあった。

弥助は竹細工の職人をしており、家の前にはさまざまな竹で作られた品物が置かれている。

「弥助さん」

良之介が家の外から声をかけた。

「どちらさまで」

と家の中から声がした。

「良之介です。わかりますか」

さらに続けると、家の中から一七〇センチくらいのやや細身の、いかにも精悍そうな顔つきの男がでてきた。

「なんだ良之介か、どうした」

弥助は意外な面持ちで良之介を見、それから正英を見て、首をひねり悩むような格好になった。

おそらく孫六から何の連絡もなかったのだろうと察した正英は、小声で、

「本多家のものでござる。中でお話をしたいのだが」

と弥助にいう。

弥助は、何も言わずに、外に出していた細工物を中に直し始める。

正英と良之介はそのまま弥助の家に入った。

正英が弥助に自分たちが彦根に来た理由、つまり直政の死因の調査と三成存命の噂の確認、を告げると、案の定孫六からなんの話も弥助にはなかったことがわかった。

ただ幸運だったのは、お耳役としてもう七年、彦根で情報収集に当たっている弥助だけに、新しくできた涼単寺が井伊家と関係が深いことから、すぐに調査し、大まかな見取り図をつくっていたことである。

「こんな絵図で、もうしわけないのですが」

弥助はすまなさそうにいった。

「いや、建物の配置や井伊家の墓の場所も¥がわかるんだから、充分ですよ」

正英は、弥助に心配をかけさせないようにいった。

「でも、建物の内部については、細かく調べられなかったんですか。弥助さんなら、そこまでできますよね」

良之介は昔なじみの気安さで、若干の不満を弥助にいう。

良之介の不満に対しての弥助の答えは、非常にこの涼単寺は警備が厳しく、昼夜を分かたず、井伊家の侍と井伊家に雇われている甲賀衆が監視していて、何時間もじっくり調べるゆとりがなかったということであった。

「なぜ甲賀とお分かりか」

正英が問うと弥助は、

3メートルほどの長槍をもっている十名の者がいて、その中に甲賀伝兵衛(こうがでんべい)の顔がありました」

といった。

甲賀伝兵衛とは、甲賀五十三家のなかでも長槍使いの家として有名な信楽(しがらき)衆の頭領である。

赤ら顔の大男で、そう見誤るものではない。

石田三成の下で忍びとして働いており、三成支配の彦根時代に弥助が調べ済みの顔であった。

正英も三成と甲賀伝兵衛の関係くらいは知っている。

甲賀伝兵衛がなぜ井伊家の者たちといるのか。

弥助の話は、正英の心の中で、三成存命の噂に、俄然、信憑性(しんぴょうせい)を帯びさせたのである。

「弥助さん、井伊家に甲賀伝兵衛の取り合わせは不自然すぎますね」

正英の感想に弥助もうなずき、

「実は忍びこんだとき、寺院の中で、墓地の入り口に近い部屋から出てきたお坊様が、石田三成にそっくりで驚きました」

と付け加えた。

以下110に続く

2007年4月 4日 (水)

琵琶湖伝一〇八「電瞬一撃」

琵琶湖伝一〇八「電瞬一撃

しかし、正英の納得はあくまで良之介の常識への納得であった。

七〇を越えた老人と、今、己が戦えば、常識的には「若い」己が勝つであろう。ただ真の内功の達人は、年をとればとるほど体内の「気」の力を上げていくといわれている。
もし
「平安百勝」が今も生きているなら、戦う「意味」があるとも思えたが、その点で良之介と議論をしようとは思わなかった。

なぜならそれ以上に、正英の心を悩ませることがあったのだ。

何かといえば、己の「居合い」の必殺性であった。

孫六にしろ、竜雲にしろ、いや他の敗北者も皆、美里拳論会で負けても死んだ者はいないのだ。では己が「居合い」で拳論会にでたらどうであろう。

生か死しかないのである。相手が死ぬか正英自身が死ぬかなのだ。

居合いは、電撃抜刀の武道であり、先に抜いて攻撃してくる相手に対し、鞘に納めている己の刀を生死の境ギリギリまで抜かず、抜いた瞬間には相手を倒さねばならぬ技である。
十六世紀の後半に「居合い」道を創始した林崎甚助(はやしざき じんすけ一五四二~一六一七)は、居合いの極意を「居合の生命は電瞬にあり」と抜刀の際の一撃こそが居合いであるとのべているほどだ。

正英は、十代のころ忠勝から「居合い」という新しい武術の存在を聞かされ自分なりに、いかに速く抜刀するかを研究してきた。

一五九〇年徳川家康の「関東入国」にともない大多喜(現在の千葉県大多喜)に家康より封じられた忠勝は、翌年正英に大きなプレゼントをする。
林崎甚助は
出羽国楯山林崎(現・山形県村山市楯岡)の出であり、かの地で暮らしながら居合いの道場を開いていた。

忠勝は、その林崎の元に、正英を一年間武術留学させたのだ。

正英は、林崎の厳しい指導に耐え、一年後林崎夢想流免許皆伝の目録を受ける。大多喜に戻る日、林崎甚助は正英に、言葉を送った。抜かずに勝つために、電瞬一撃の修行を怠るべからず」

居合いは最終的には平和のための道具であり、世の人々に剣を抜かせぬために居合いの修行はすべきなのだ、という意味であり、「居合い」という殺人剣を創始した林崎が、「居合い」を「活人剣」にするための言葉であった。

それから十年以上が過ぎた今、正英の胸に去来するのは、己の居合いがいまだに、殺人剣以上のものになってはおらず、活人剣の域に達していないことへの反省であった。
もし真の居合いの達人なら、敵と向かい合っても、生か死かではなく、互いの「生」しかないはずなのだ。

良之介は、先を行く正英の背中が何かに耐えているように見え、

「正英様、物思いにふけっておられますか」

と声をかけた。

正英は振り向き、

「良之介、中原中也の「帰郷」という詩を知っているか」

と逆に問う。

「いえ、知りませんが、どういう詩ですか」

「こんな詩だよ。

心おきなく泣かれよと

年増の低い声がする

あぁ、お前は何をしてきたのだと

吹きくる風が私にいう」

すでに路傍の道標は「彦根まであと半里(約二キロ)」と記している。

晩秋の寒風が、正英と良之介の跡を追ってきていた。

以下一〇九に続く

2007年4月 2日 (月)

琵琶湖伝一〇七「平安百勝」

琵琶湖伝一〇七「平安百勝」

「フーン、腕だめしか。美里村の代表者との勝負は、雑賀や根来との勝負以上に、他派にはきついだろうな」

「いや、腕試しといいましても、美里村の方の背後に回れれば、門の通行を許すというもので、真剣勝負ではなく、かなり形式的なものです」

「背後にも回れぬ者は参加してもしかたないしな。それで新しい形の大会が一五五〇年から始まったわけだ」

「「美里拳論会」は、五〇、六〇、七〇、八〇、九〇年とその後五回開かれ、一六〇〇年の大会は、関ヶ原の戦いで武術大会どころではなくなり、中止になります。八〇年の優勝者が孫六様。九〇年の大会は、決勝で孫六様に負けた竜雲和尚がリベンジを果たすために修行に修行を重ねたのですが、諸国を遍歴していた孫六様は不参加でした」

「竜雲様も残念だったな」

「えぇ、九〇年の準決勝は、竜雲様と堅田水舟拳の使い手岡本邦源様、もう一方は古今天真拳を使う細川幽斎様と織田信長様の側近で信長様亡き後仏門に入られた三井園城拳の大田牛一様」

「良之介、堅田水舟拳の岡本邦源といえば、近江堅田(滋賀県大津市堅田)の堅田湖族衆総代の岡本邦源様か」

「そうですよ、正英様、お知り合いですか」

「いやぁ、ちょっとな。それで邦源様に竜雲様は勝ったわけだな」

「はい。そして細川幽斎様と大田牛一様の空中書対決は、細川様がお勝ちになり、決勝は竜雲様と細川様でした」

「竜雲様は細川様にも勝ったんだ。すごいな」「ただ、決勝は細川様が、岡本様に勝った竜雲様に勝てるわけがないと辞退され、竜雲様の不戦勝になったそうです」

「ふーん、岡本邦源様の力も凄かったわけか」

「そうなりますね」

「良之介」

「はい」

「次の大会は一六一〇年か」

「そうです」

「次の大会には一緒にでようね」

「出たいですね・・・アッ・・・六〇年の大会は対外的な問題はなかったのですが、中止になったんですよ。参加者全員が、当日午前九時までに美里村の門をくぐれなかったということです」

「エッ・・・台風か何かあったのか」

「いえ、門の前に立っていた美里村の代表者が、参加条件を勘ちがいして、雑賀や根来の方々を含め参加者全員と真剣勝負をし、門前で全員を戦意喪失に陥らせたというのです」

「何と。全員を・・・強すぎるな。当然、外功では体力的限界があろう。すさまじい内功の持ち主が、美里村にいたわけだ」

「そうです。なんでも、美里正拳の奥義「平安百世(へいあんひゃくせい)」という技を使ったそうです」

「どんな技かわかるか」

「竜雲様もわからないといってました。ただその美里村の代表者の名前を、美里村では隠し、「平安百勝」という名でその者を呼び、その者ではなく表様が参加者全員にわびたそうです」

「平安百勝か。戦ってみたいな」

「それは無意味でしょう。美里正拳の奥義「平安百世」という内功を完璧に使えるとしたら、おそらくその時点で若くても三〇歳ですよね。ならばもし今生きているとして、もう七〇を越えているはず。そのような老人と戦って勝っても威張れませんよ」

「生きていれば確かに、七〇は越えているな。戦っても仕方ないな」

良之介の言葉を繰り返し、納得顔の正英であった。

以下一〇八に続く

2007年3月31日 (土)

琵琶湖決戦編一〇六「武林の人々」

琵琶湖決戦編一〇六「武林の人々」

早朝六時の出立は、まだ陽があるうちに彦根に着かねば、彦根で待つ弥助の家を探せないかもしれないという、正英の不安からであった。

良之介も正英の思いはわかるし、自分が孫六から渡された地図を頼りに、探す勤めであるからには、すこしでも早く彦根に着きたい気持ちは、正英以上である。

三時間くらいを、二人はかなりの速足で歩き、休憩せねば、午後三時には彦根に着きそうと目安がついたところで、正英はきのうの雑賀と根来の話の続きを良之介に訊ねた。

「雑賀と根来の方々が、争いを激化させていくのを憂慮した方がいたのです。今から一四〇年ほど前、美里村永代名主第二九代、表正左衛門様は雑賀と根来の指導者を美里村に呼び、和解案を出します。それは、お互いの武術へのこだわりが争いの元であるから、十年に一度互いに四名の代表者を選び、その者たちに一対一の勝ち抜き戦をさせ、純粋な武術の試合をして、優劣を競わせようというものでした」

正英は、わかったという感じで、両手を軽く合わせ、「その勝ち抜き戦が、「美里拳論会」だな」

という。

「そうです。それから雑賀と根来の対抗戦として、「美里拳論会」は続いていきますが、五十二年前に雑賀と根来以外の武林(武術の世界のこと)の方々が参加を願いでたのです」正英は歩きながら、武林の派を考えた。「参加をしたい武林といえば、まず空海様が高雄におられたときの高雄山西命寺派かな。ほかには」「書の達人でもあった空海様の筆法から生まれ、筆に気を込め空中に描いた文字で敵を攻撃したり、空中に碁盤の目を描き空中碁で相手と頭脳勝負をしたりする、古今天真拳(こきんてんしんけん)。また同じように空中書の技を持つが空海様の流れではない、近江の三井園城派(みいおんじょうは)など・・・私もそれくらいしか」

「いやそれでも、雑賀、根来、高雄、古今、三井の五派が参加すると聞くだけでも、充分にわくわくするぞ」

「私だってわくわくしますよ。ただ、美里村はあくまで雑賀と根来の友好のための大会ということで、参加したい他派に条件をつけます。雑賀と根来以外の他派の代表者は二名まで。大会参加者は全員、当日の午前六時から午前九時までに美里村入り口の門をくぐること。ただし他派の方のみ、美里村の代表者が腕試しを試みる・・・これらを他派の参加条件としたのです」

以下一〇七に続く

2007年3月30日 (金)

琵琶湖伝第二部一〇五「良之介伝説」

琵琶湖伝第二部一〇五「良之介伝説」

正英は、天ぷらと茶碗蒸しを味わい、最後にきなこ餅をほおばると眠くなったのか、

「良之介、雑賀と根来の話は、明日の道中でやろう。明日は五時に立つ。だから、四時には起きるぞ」

といい、まだ午後九時であったが、一人で布団を敷き、床に就いた。

良之介は、正英ほど食事が早くなく、ゆっくり最後のご飯と香の物を食した。

係りの仲居は、楠真由美(くすのき まゆみ)似の色っぽい年増で、膳を片付け、良之介の布団を敷いたあと、良之介の右手を両手で握り、誘おうとする仕種(しぐさ)をした。

良之介は、仲居の手の柔らかさとにとまどったが、

「色即是空・・・妖魔退散、色魔(しきま)滅亡・・・」

「般若(はんにゃ)ハラミ、般若ハラミ」

と意味不明のことをいい、悪魔のささやきをかわした。

・・・・・・つもりであったが、色魔の力には抗しがたく、楠真由美似の仲居の豊満な胸の中に顔を埋めていくのであった。

すでに時刻は翌朝の五時半。

精力絶倫の良之介は、正英からいわれた通り、午前四時には起きたのだが、肝心の正英が起きないのである。

さすがに、これ以上待てずと良之介は、正英を起こすと、

「なぜ早く起こさぬか」

と正英は八つ当たりをし、さらに、

「さてはお前、寝ずにあの楠真由美似の仲居と「まぐわい」をしていたな」

とでたらめをいうと、

「そんな、二時間くらいでおわりましたよ。寝たふりでもしてたんですか」

真剣な顔で良之介は答える。

「エッ、マジ」

正英は、眼を覚まされる。

すでに楠真由美似の仲居が、握り飯を六つ作ってくれていた。.

その握り飯をもらい、正英と良之介は、夜がやっと明けかけた大垣の町に出ようとする。

「真由美」

「良さん」

一夜とはいえ情けを交し合った男女は名残を惜しむが、その横で、地面に両手をつき、蝦蟇(がま)の格好で、

「クエッ、クエッ、クエッ」

と奇声を発する正英のパフォーマンスに、男女は笑いあい、握っていた両手を離す。

午前六時、大垣養老屋を出立。

楠真由美似の仲居は、正英と良之介の姿が見えなくなるまで手を振っていた。

「良之介、お前も大人になったな」

正英が、三十を過ぎた男としての言葉を、低音で発した。

「そうですね、真由美さんでちょうど百人目です」

何事もないように良之介はいう。

「良之介って、すごい人だったんだ」

「ちょうど百人目」と事も無げにいう良之介を、心からの尊敬の眼でみつめる正英であった。

以下一〇六に続く

2007年3月28日 (水)

第二部琵琶湖決戦編一〇四「根来山王拳」

第二部琵琶湖決戦編一〇四「根来山王拳」

良之介は味噌汁の中の焼き茄子を何度も噛んで味わってから、口を開いた。

「八三五年に空海様がなくなられたあと三〇〇年ほどは、「美里正拳」は村外にでることもなく、平穏な日々が過ぎていきました、美里村の方々は表様の指導の下で高野山のために尽くしたのです。そういうなかで12世紀の中ごろ、高野山に空海様以来の学僧といわれる「覚鑁(かくばん)」上人(しょうにん)があらわれます」
襖があき、仲居が焼き物をもってきた。ヤマメや鮎の骨を抜きていねいに焼いていて好感のもてる作り方であった。

また、もう一種類、丸ごとの柿のなかに栗と生麩をいれ柿ごと焼いて赤味噌で食すという凝った焼き物も正英と良之介の舌をうならせた。

「いやー、うまい・・・それで、覚鑁様は高野山のヤマメをじゃなかった、どうされた」

「はい、覚鑁様は真言宗の学問所を根来の里におつくりになり、根来寺は学問の雰囲気にあふれた寺となったのです。ところが高野山の内部では、覚鑁様に反対する勢力も現れ、内部対立を嫌った覚鑁様は単身高野から根来に移られました。その後、真言宗三大学山の一つ、新義真言宗の根本道場として学問の寺、根来寺は、有名となり全国から学問を志す多くの僧侶が集まったのです」
「よく高野山は、覚鑁様のわがままをゆるしたな」
栗と生麩に赤味噌をつけ食しながら、正英は首をかしげた。

「その通りで創建時から根来寺は他宗派と争いの絶えないお寺で、警護のための僧兵の力も必要でした。そんな時、美里正拳の七割の技を習得したもの、つまり美里五人衆のひとりが、覚鑁様のお考えに共鳴し、美里村を抜け、根来寺の武術師範になったのです」
良之介がそう言い終わった時、今日の夕餉の中心となるキノコ鍋を仲居が運んできた。

二種類のしめじとキノコ各種それに季節の野菜がバランスよく入っている。

さらにまったけをその場で焼く用意も整えられた。

正英は、ごはんの代わりにきなこ餅を五つ頼んだ。

「良之介どうだ、この養老屋の料理は」

「満足ですよ」

「だろ。しかし、根来寺の僧侶も美里五人衆のひとりに指導されるんだから、武闘家としての実力は相当のものになっただろうな」

「そうですね。それをよこから見て面白くなかったのが、浄土真宗を信じる根来のすぐ近くの雑賀衆の方々だったのです。今から二百年ほど前、十五世紀のはじめに、雑賀衆は若者二人を選び、根来寺の寺男として住み込ませます。それから二十年、この二人は根来寺の武術の調査研究をし、根来寺を去ります」

「良之介、それでは雑賀衆は、根来寺の武術を盗みに行ったようなものではないか」

「そうなりますね。雑賀衆は根来寺の技を工夫改良し、雑賀海王拳(さいがかいおうけん)という独自の拳法を作ります。しかし、根来の方々は雑賀衆を許すことができず、雑賀と根来は、血で血を洗う抗争に突入してしまいます」

正英は、まったけを焼き、軽く醤油をかけて食いながら、

「それで根来のほうも雑賀に対抗して、根来山王拳といいだしたんだな・・・ウン、うまい。しかし、雑賀と根来は隣も同然のちかさだよな・・・よく共倒れにならなかったな」

良之介が正英の問いに答えようとしたとき、係りの仲居が、

「最後の三品です」

といいながら、かぼちゃやにんじんなど野菜に湯葉をかぶせ、カラッと揚げた天ぷらとゆりねとしいたけの茶碗蒸し、それに良之介にはご飯と香の物、正英にはきなこ餅を持ってきた。

以下一〇五に続く

2007年3月25日 (日)

琵琶湖伝第二部103「高野神拳」

琵琶湖伝第二部103「高野神拳」
「正英様、「九星陰陽経」の技を学べる体力、体質、精神力を村人全員がお持ちとお考えか」
「そうか、体力、体質、精神力のすべてに秀でた人間など、そういないな。心がなければ、教えたことも悪用されよう」
「ですから、空海様は表様を貴重な人材とみなされ、御入滅あそばす二日前、八三五年四月二十日、表様を呼び、以下のことを命じられました。表家を美里村の永代名主とし代々表正左衛門を名乗ること、空海様が教えた技のうちすべての技を継承していくものは表家のみの一子相伝とすること、村人のうち代々の表正左衛門が選んだ五人(のちに美里五人衆と呼ばれる)にはすべての技の七割を教えること、他の村人には男女の別なくすべての技の五割を教えること。この四つの指示を表様にしたあと、空海様は、「九星陰陽経」をお焼きになられたのです」
「やはり、「九星陰陽経」はこの世にないのか」
「空海様がお亡くなりになったあと、表様は空海様が自分に教えた武術と自分が空海様のご遺言に沿って今から教えていく武術とは、同じはずがないとお考えになり、空海様の武術を「高野神拳(こうやしんけん)」、表家の技を「美里正拳(みさとせいけん)」と名づけられました。そしてここからは、言い伝えなのですが、初代表正左衛門様は、唐で空海様が印九星様の教えを文字にしたためたように、空海様のお教えを文字に直されていたというのです。表家の書物の名も「九星陰陽経」というそうです。ただしその書物を見たという方は今の今まで誰もいないということです」
「ウーン、噂か。武術を志す者なら誰でも、そういう書があってほしいと願うな。その夢が伝説を作り出したかもしれんな」
そういい、一人で納得顔をする正英に、
「正英様、早いものでもう大垣の街中に入りますぞ。養老屋でしたかね。あとの話は、夕食でもとりながらにしましょうよ」
という。
正英も、
「歩き続けてきたからな、確かに腹が減った。養老屋はすぐそこだ」
と同意する。
養老屋に着くと二人ともすぐに一風呂浴び、夕餉の膳につく。
まず付け出しは、湯葉と伊勢湾でとれたウニを酢でさっぱりとまとめ、さらにホウレン草ときのこのお浸し、それに焼き栗と銀杏を少々。
「うまい」
正英は心からうれしそうにいう。
良之介は、声をださず何度も噛み締めているが、顔は満足していることがわかる。御椀は京の白味噌の味噌汁に焼き茄子(なす)ととうふを具としていれ、とうふには黒ゴマをかけている。
正英は、絶品の味噌汁を飲み干すと、良之介に、空海様の死後、「美里正拳(みさとせいけん)」はどのような道をたどったのかを聞いた。
以下一〇四に続く

2007年3月23日 (金)

琵琶湖伝第二部102「表正左衛門」

琵琶湖伝第二部102「表正左衛門」

空海が高雄山から高野山に移ったとき、空海を信奉し、空海の生活を支え、また身辺警護などもしていた在家の信徒百人あまりが、高野山麓に空海を追って移住してきた。この移住してきた人々が、高野山の寺院や僧侶の生活を支え、また守護者となっていく、美里村を形成することになる。

「良之介、空海様や高野山、美里村についてはわかったが、美里拳論会はどうなってんだ」

正英が不満げにいうと、

「武術的なことは今からいいますよ」

と良之介は答え、話を続けた。

「空海様は、「九星陰陽経」の修行を日本に帰られたあとも続けられ、自由自在にその技を使いこなすようになられました。高雄山寺におられたころは、同じ高雄山にある西命寺(さいめいじ)の僧侶たちが、空海様の武術の修行に参加することを請うたとき、快くそれを、お受け入れになり、「九星陰陽経」のわざの一部や薬学の知識を授けられたのです。その後、西命寺の方々は高雄山西命寺派という武術の一派を形成され、内功と空海様直伝の薬学の知識を基にした「毒使い」によって、武林(ぶりん 武術の世界)にその名を轟かせていきます。空海様は高野山にお登りになったあとは、僧侶は、武を有する必要はないとお考えになり、「九星陰陽経」を二度と僧侶には教えなかったそうです」

「僧侶には教えなかったということは、誰かには教えたということか」

「正英様、さすがに鋭い」

良之介が世辞をいうと、正英は喜び、

「教えたのは、美里村の人々か」

と勝手な推測をした。

それが当たっていたので、良之介はブタもおだてりゃ木に登ると思いながら、それをいったらお仕舞いよと、口にはせず、話を続けた。

「すごい、正解です。空海様は、空海様とともに京都から移って来られた在家の方々を深く信頼されました。その方々が作った新しき村である、美里村の中でも特に名主となった表正左衛門(おもてせいざえもん)には高野山の支え石になってもらいといと思い、「九星陰陽経」の技を教えられたのです」

「俗界と聖界の境目に美里村を置き、高野山全体を純粋なる仏教の聖地にしたわけだ」

「正英様冴えすぎ。それだからこそ、美里村には「俗」の無法を撥ね付ける「武」を空海様は持たせねばならないとお考えになり、表正左衛門を鍛えたのです」

「それなら表だけではなく、多くの村民を教えればよいのではないか」

素朴な疑問を正英は、良之介にぶつけた。

以下103に続く

2007年3月21日 (水)

琵琶湖伝第二部101「高野山へ」

琵琶湖伝第二部101「高野山へ」

「その「九星陰陽経」の写しはどこにあるのだ」

「正英様、あくまで伝承、言い伝えでして、本当にあるかどうかはふめいですよ」

「良之介、もったいぶるな。言い伝えではどこにあるのだ」
「紀州高野山の麓、美里村に」
「美里拳論会の行われる場所か」

「そうです」

「なぜ、そこに」

正英の疑問に良之介は答えていくのだが、空海様の業績を事細かに良之介はしゃべりだしたので、正英が聞きたかった事のみを書くことにする。

空海は、八○四年が終わりかけた時に長安に来たが、それから一年余りでなんと密教の真髄がわかり、唐に来た目的を果たしてしまう。

そこで八○六年は、半年以上にわたり、密教以外に土木技術や薬学についての造詣を深めることに費やし、十月には日本に帰朝する。

九州に上陸した空海は、そのまま大宰府(現在の福岡県太宰府)に滞在する。じつは空海は20年の留学期間を国より命じられていたのに、二年で切り上げての帰国。当時の規定ではそれは罪にあたるとされていたため、入京の許しを待とうと大宰府にとどまったのである。

八○九年七月、ついに入京の許しが出て、空海は京都の高雄山寺(のちの神護寺)に入った。

それから十年余りを高雄山寺を拠点としてすごすが、その間八一六年には、修禅の道場として高野山の下賜を請い、78日には、高野山を下賜する旨勅許を賜る。八一七年、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、八一八年十一月には、空海自身が勅許後はじめて高野山にのぼり翌年まで滞在、翌年八一九年春には七里四方に結界を結び、ついに伽藍建立に着手、ここに高野山真言宗の基礎が築かれることになる。

高野山について述べれば、高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000メートル級の山々に囲まれた標高約800メートルの平坦地に位置する。現在では百か寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。そして京都の東寺(八二三年正月、宮廷より賜った真言密教の道場)とともに、真言宗の宗祖である弘法大師空海が宗教活動の拠点とした寺であり、真言密教の聖地、また、弘法大師信仰の山である。

以下一○二に続く

2007年3月19日 (月)

琵琶湖伝第二部100「九星陰陽経」

琵琶湖伝第二部100「九星陰陽経」

「何、隠し芸やってるんですか。着物が汚れまくりですよ。さぁ、立って立って」

良之介は笑いながら正英の脇を抱え、起こして、ほこりをはたいてやる。

「良之介、何をするんだ。せっかく蝦蟇功(がまこう)をお前に見せてやろうと思ったのに」

「いやぁ今の「がま」だったんですか。形態模写がうまいんですね。けど着物汚すほど体張る必要ないですから」

正英は良之介の応対に不満顔をしながら歩き出した。

歩きながら、

「空海様の続きはどうなってんの」

と良之介に催促した。

「そうですよ。正英様が妙な格好をされるんで、話を忘れそうになりました。印様とともに長安に着いたのは同年の八百四年十二月末。空海様は当然長安に残り密教のお勉強にいそしみ、印九星様は長安の青龍寺の密教の大権威である、恵果様に約束の経典を渡し福州にお戻りになりました。空海様は、福州を出発してから印九星様と長安で別れるまでの間に習ったさまざまな少林寺の武術の技を忘れぬように、書物にしたため、その書物に「九星陰陽経(きゅうせいおんみょうきょう)」という名をつけました。そして、空海様は、九星陰陽経の中にある技を、毎日のお勉強の合間に、一日足りとも欠かさず、練習されたのです」

「読みたい」

正英は腹の底から声をだした。

「読みたい」

さらに繰り返す。

あまりに力んだ声に、良之介は正英が腹でもこわしたかとおもったが、真剣なまなざしで、宙をにらんでいる様子に声をかけにくくなる。

「良之介、その「九星陰陽経」という書物は今。どこにあるのだ。ぜひ読んでみたい」

「そうですよね、正英様。私もこの話を竜雲様から聞いたとき、まったく正英様と同じ反応をしました・・・読んでみたい・・・でも八百年近く前の話で、「九星陰陽経」が現存するはずはないですよね」

そういう良之介に、正英は問う。

「空海様の直筆のものはないかも知れんが、写しがあるのではないか」

「写しがあるという、言い伝えはあります」

良之介は、ニヤリと笑ってそういった。

以下101に続く

2007年3月17日 (土)

琵琶湖伝第二部99「蘭若寺」

琵琶湖伝第二部99蘭若寺

「当然、空海様はその条件をのんだであろうな。長安に行けるか行けないかの瀬戸際だからな」

「そうです。正英様。ただここで空海様がご幸運であったのは、日本で十年以上を山の中での修行に明け暮れていたことです」

「なるほど、その修行の中で空海様は、自然に常人離れした体力を有するようになっていたはず。そうでなければ、少林寺の僧と一二○日以上修行しながら長安を目指すなどできるはずがない」

「正英様、空海様がさらにご幸運であったのは、いや、日本の武林(ぶりん 武術界のこと)にとって幸運だったのは、この蘭若寺(らんろうじ)印九星様は南林五虎(なんりんごこ 南少林寺の武術を代表する五人)の中で最強を謳われた人だったということです」

正英は良之介の話を聞きながら、

「アッ」

と小声をだし、歩みを止めた。

良之介も正英に合わせて歩みを止め、

「正英様、いかがなされましたか」

と問うた。

「らんろうじ・・・らん、ろう、じ・・・蘭若寺、思い出した。中国の伝説に、昔、宮廷に妖怪がはびこり、国を乗っ取ろうとしたとき、蘭若寺の修行僧、印牛馬(インウーマ)が信じられないような内功の技を次々に繰り出し、妖怪を退治したというのがある。まさかその・・・」

良之介は微笑みながらいう。

「そのまさかです。印牛馬の師匠が印九星様です」

正英は、大きくため息をついた。

「空海様がうらやましい」

それは、武術家井原正英の本音であった。

人は伝説に憧れを抱き、それを物語にするものである。

正英は本多忠勝や戸沢白雲斎というすばらしい師匠にめぐまれたのだが、やはり伝説には勝てないのである。

もしこの場に忠勝がいたとしても、やはり、

「空海様がうらやましい」

といったであろう。

正英は、そのまま地面にうつ伏せになり、静かに四肢を伸ばした。

そしてその四肢を今度はゆっくり縮めながら起き上がっていく。

まるでカエルが座っているような格好になったとき、正英は動作を止め、のど仏をカエルが息をするように膨らませた。

以下100に続く

2007年3月16日 (金)

琵琶湖伝第二部98「空海の冒険」

琵琶湖伝第二部98「空海の冒険」

良之介は、話を続けた。

「空海様を乗せた遣唐使船は、八○四年七月六日に肥前の国松浦郡田浦を出港いたしました。遣唐使船は何隻かの船に分かれて航行いたしますが、運悪く空海様のお船は八月十日暴風雨に遭い、沈没なされたのです。しかし空海様は日ごろの修行のたまものか運よく、意識不明ではありましたが、福州(現在の福建省)の赤岸鎮(せきがんちん)の砂浜に打ち上げられました

「唐の長安に行くのが遣唐使の目的だから、長安から見たら、福州は中国大陸の南端と同じだな。よく空海様は長安に行けたな」

正英は独り言のようにつぶやいた。

「そうですよ。ここに仏縁が生じたのです。砂浜にお坊さんが打ち上げられたが、まだ意識があると地元の漁民から聞いた、福州少林寺の僧侶たちが空海様を助け少林寺に運び、手厚く看護をしてくれたのです。その結果、空海様は一命を取り止めました」

良之介・・・しょうりんじ(少林寺)・・・少林寺といえば普通、河南省(北部は黄河の下流域に位置し、省南部は淮河流域となり、省全体に広大な平野が広がる。重要な農業生産地域である。山東半島を中心とする山東省の右隣の省ともいえる)嵩山(すうざん)の少林寺であろう。五世紀末に建立された、達磨大師

ゆかりの禅宗の名刹であり、中国武術の起源を成すとも言われる寺だな・・・その福州の少林寺は、河南から二百年後に造られた南少林寺のことか」

「正英様、ご名答です。その福州の少林寺のほうは、河南以上の武術家が集まりすぎたために、皇帝の恐怖の対象として何度も数万の皇帝軍に攻撃され、とうとう跡形もなく消え去り、今は伝説の少林寺といわれております」

正英は良之介から「ご名答」とほめられ、うれしくなり、

「いやぁ、俺も忠勝様や戸沢白雲斉様の武術を習った人間だ。それくらいはな」とアゴに手をやり、満足そうである。

「それで、福州の少林寺の方々に助けられた空海様はのその後は」

正英は眼を輝かせて、良之介に話の続きをせがんだ。

「僧侶たちの献身的な看護と空海様の山で鍛えられた体力のおかげで、五日ほどで元気になられます。その後に得意の中国語で長安に仏法を学ぶためにきたことを、少林僧たちに告げますと、寺院内の塔頭の一つ「蘭若寺(らんろうじ)」をあづかる住職、印九星(イン チュウシン) が、長安の青龍寺の住職にして当代密教の権威、恵果に経典を持っていくことになっていることを教えられます。空海様はこの機会をのがせば一代の不覚と印九星様のお寺に三日三晩通い、ついに印老師も根負けしお伴を許可されます。ただし、八月二十日に出発するが、長安到着は年末になろう。この百二十日あまりの間、わしの武術の練習相手にならねば、この話は成立しないと明言されたのです」

以下99に続く

2007年3月13日 (火)

琵琶湖伝第二部97「美里拳論会」

琵琶湖伝第二部97美里拳論会」

「ところで良之介はいつごろ善良寺の寺男になったのか」

「いや、私は生れた時から善良寺で」

「えッ」

「善良寺の門の前に、赤子の時に捨てられていたそうです。竜雲様の前の御住職の禅海和尚が、私を拾われ育ててくださりました。九歳のときに禅海様が亡くなられ、竜雲様がおいでになりました」

良之介はたんたんと話しているが、その眼には涙がうっすらと見える。

正英は、良之介が禅海和尚という方を心から好きだったのであろうと感じた。

そして話を変えようと思った。

「しかし、お前や弥助やお風に武術を教えた竜雲和尚とは相当な力量の持ち主であろうな」

「聞くまでもないですよ。でも孫六様もすごいですよ。二十二年前にお二人は美里拳論会(みさとけんろんかい)の決勝で立ち会われ、孫六様が圧勝したそうです。竜雲様から直々にお聞きしたので、間違いないと」

「ヘェー、二十二年前か。孫六様は二十四歳だな。竜雲様は今年おいくつだ」

「四十歳です」

「なら、その美里拳論会のときは竜雲様は十八歳か。わかすぎるな。それは孫六様に利があるな・・・孫六様は雑賀海王拳だが、竜雲様は」

「根来山王拳です」

良之介の話をそこまで聞くと、正英には、ある疑問が浮かんだ。

「おい、美里拳論会って何だったかな。ちょっと記憶がないんだが」

「これは竜雲様からの受け売りですが、竜雲様は美里拳論会についてやその由来を何度も私に話してくださいましたので、・・・」

「よかったら教えてくれ」

正英の要望に良之介は姿勢を正して話し出した。

「はい、それでは・・・そもそも美里拳論会は、今から八百年以上前の弘法大師空海様の誕生(七七四年)から始まります。空海様は三十まで山に籠り、瞑想を通じて密教(インドで三世紀頃、もともとの釈迦仏教に病気を治し豊作を祈るインド土着の呪術や儀式を取り入れてうまれた。根本経典は大日経と金剛頂経。)の真髄に迫ろうとしますが、その間日本にもたらされていた、密教の中国仏典の研究にもいそしみます。しかし、中国からの渡来人との交流を通じて中国語に堪能であった空海様でも、中国語の仏典の解釈には悩み、本場中国での研鑽を目指し、八百四年の遣唐使船の一員となりました」

正英はそこまで良之介の話を聞くと、

「空海様の密教修行の話は勉強になるが、武術とは関係ないではないか」

と不満をのべる。

良之介は、一六〇センチ八〇キロの正英の体格に合わせるように、大きく膝を曲げ、己の顔を正英の顔に近づけ、

「正英様、お話はまだ途中でございます」

と睨みながらいった。

「わかりまちた」

素直にうなずく正英であった。

以下98に続く

2007年3月11日 (日)

琵琶湖伝第二部96「風ねぇーや」

琵琶湖伝第二部96「風ねぇーや

美濃街道を歩む正英と良之介の会話は続いていく。

「良之介よ、彦根に入ってからのことは、弥助(やすけ)にきけとかいわれて、孫六様は彦根の弥助の家までの地図をお前に渡されたが、わかるんだろうな」

「わかりますよ。さっきお城で一度彦根に行ったことがあるといったのは、弥助さんのところに遊びにいったことなんですよ」

「弥助とお前はどういう関係なんだ」

正英の問いに関する良之介の答えは、お耳役の同僚だがそれ以前からの知り合いで、良之介と同じく善良寺で暮らしていたとのことある。

「そうか、お前は小さいころから弥助を知っていたわけだ。それなら弥助は信用できるな」

「できますよ、何言ってんですか。いい人ですよ」

「フーン、お前と弥助は武術的には善良寺だから、竜雲和尚の兄弟弟子か」

「そうですよ。8年位前かな。孫六様が竜雲様にお耳役になれそうな人間はいないかと、聞きにきたそうで、竜雲様は弥助さんを推薦されたそうです・・・」

以下の良之介の話をまとめると、弥助は今年で三十五歳(正英は三十四)で、竜雲和尚が大多喜の善良寺の住職に来る前からの弟子だそうで、12年前に竜雲和尚は弥助とお風(かぜ)という13歳の少女を伴って大多喜に来たという。

「お風さんは・・・べっぴんか」

と正英は下品な笑みを口元に浮かべながらいう。

「それは、美しいですよ。ただ15歳のときに得度されて風韻(ふういん)の尼といわれるように、なりました。だから、いやらしいこと考えたら駄目ですよ」

「仏門に入られたのか。今も大多喜に」

「それが、風ねーや(姉さん)は、諸国を行脚したいとかで3年前から旅に出て・・・それから行方が不明に」

「それはしかたないぞ。美しき若き尼が一人で旅をすれば、もう・・・あの・・・ちょっといいにくいが・・・エッチされて・・・あの・・・・なぁ・・・出されたり・・・しちゃって・・・エヘヘへ」

言いながら正英は恥ずかしくなったのか顔が赤くなり、さらに興奮したのか軽く鼻血もでてきた。

「正英様なにいってんですか。風ねーやは武術の達人ですよ。大多喜でやくざ三人が、風ねーやを襲ったことがあって、三人とものどをつぶされ、その場で窒息死したんですよ」

「外功の達人か」

正英は鼻血を懐紙でぬぐいながら、聞く。

「もちろん。内功のほうもすごいですよ」

「どんな技だ」

「楽器の音に気をこめることで、その音を殺人音波にするというものです。風ねーやは、1メートルほどの長さの小さい琵琶を弾きます・・・その音で周囲の樹木の枝がすべて折れ、地面に落ちてしまったのを見たことがあります」

「すごいな」

「すごかったです」

以下97に続く

2007年3月 9日 (金)

琵琶湖伝第二部95「美濃街道」

琵琶湖伝第二部95「美濃街道」

美濃の国(現在の岐阜県)に入っていくさまざまな道を総じて、美濃街道という。

尾張(現在の愛知県)の東海道宮宿と美濃の中山道乗井宿をつなぐ脇街道のことをいう場合もあれば、越前(現在の福井県)最大の城下町福井から、東郷・大野・穴馬谷をへて美濃に向かう街道をいう場合もある。

伊勢の国(現在の三重県)を通る美濃街道は、桑名から長良川沿いに進み、美濃大垣に至る道である。

桑名の七里の渡しから東海道を二〇〇メートルほど行くと美濃街道と東海道の分岐点を示す道標がある。

その道標に従い右に進めば美濃街道である。桑名から多度へ、多度柚井を抜け美濃へはいり、大垣まで全行程約四〇キロである。

その大垣から関ヶ原を通って進めば、近江の国彦根に到着する。

大垣から彦根まで約四〇キロ。桑名―大垣―彦根の行程は約80キロの道のりである。

今その道のりを歩く二人の男がいる。

井原正英と市来良之介である。

孫六に見送られて桑名城を出発した二人は、鈴鹿峠を越え、近江水口(滋賀県甲賀市

水口町

)に入っていく東海道を通る道ではなく、美濃街道から彦根を目指す道を選んだ。

理由は、近江水口周辺は甲賀衆の本拠地であるからだ。

もし石田三成が生きているとすれば、同じ近江ということで、三成は甲賀忍者をかなり重用していただけに、わざわざ敵の拠点を通る必要はないのではないかと、孫六が忠告したのである。

正英と良之介は、孫六の提案を

「大げさな」

と思ったが、あまりに真剣な顔つきで孫六が言うので、従ったまでである。

良之介は大垣に行ったことはあるのか」

「いえ、一度も」

「今日は大垣で泊まろう。養老屋という旅篭(はたご)があってな、ここの山菜料理は抜群にうまいぞ。それに、きなこ餅は絶品だ」

「井原様はお酒のほうは」

「まったく飲めない。体が受け付けないのだ。お前は」

「寺にいたので、無理に飲もうとは思っていません」

「飲めるが飲まないわけだ。ウン・・・大いに食べような」

正英と良之介は、のんびりと大垣にむかっているようだが、ふたりとも大垣には日暮れまでに着かねばならないので、大垣まで休憩をとるつもりはない。

なんせ街灯などない当時のことである。

日が暮れれば、にぎやかな街中は灯りもあろうが、街道などは月明かりがたよりの旅になる。

午前八時に桑名城をでた。

11月上旬の日暮れが午後六時として十時間で大垣までの四十キロを歩くことになる。

のんびりとした旅だが、ひたすら歩く旅でもあった。

以下96に続く

2007年3月 7日 (水)

第二部琵琶湖決戦編94「家老梶金平」

第二部琵琶湖決戦編94「家老梶金平」

「何やってんだ、いいかげんに、しろーい・・・Gメン」

怒鳴りながら一応のギャグらしきことも言いながら、広間に入ってきたのは本多家家老の梶金平(きんぺい)である。

「朝から騒ぐな。忠勝様とて容赦はしませんぞ」

梶金平に怒られ忠勝はシュンッとなった。

「こんぺい、すまん」

忠勝は素直に謝る。

「わしゃ、きんぺいじゃ。こんぺいじゃない。とにかく忠勝様、朝食ができております。さぁ、お利口だから食事にいってくださいね」

「ハーイッ」

忠勝は、ごはんちゃ、ごはんちゃと言いながら部屋を出て行った。

梶金平は、

「残った人、集合」

と、孫六、正英、良之介を集める。

「あのね、朝からみんなで学芸会するために、登城させたわけじゃないの。特に孫六さん、君がいながらこの騒ぎはなんなの、いうてつかぁさいよ、ほんとうに、どげちこげちならんなぁ」

梶金平はネチネチと注意をしだしたが、その時間ももったいなくおもったのか、すぐに、用件を述べる。

「正英と良之介は今から彦根に潜入してください。すぐに出発。自宅に寄らずにね。彦根に入ったら、涼単寺に行き、直政様の墓から骨を何本か持って帰ることと三成に似た坊さんの確認。いいですか」

「はい」

正英と良之介は声をそろえて言った。

梶金平はさらに話を続ける。

「正英、お前はこの本多家で毒使いにおいては、忠勝様の次に力があるそうだな。忠勝様から聞いたぞ」

「まぁ、ちいさい頃から忠勝様にいろいろ教えてもらいましたから、毒薬の知識もありますし、毒に対する抵抗力もありますよ。簡単にいえば私に毒は通じません」

「ウン、だからその場で直政様の骨を見て、毒殺か否かをお前が判断してもよいということだ。判断つかぬときは持って帰れとのこと。そのときは忠勝様が調べることになる。三成の顔もしっておるな」

「もちろん何度か見たことはありますから、ご心配なく。ただ、彦根の町の中を歩いたことがないので・・・良之介は」

「一度行ったことがありますが、その日のうちに帰ったので詳しいとはいえませんが・・・」

梶金平は、

「そのことは、孫六から聞けばよい。孫六、大手門までこやつらを見送ってくれ。その間に、教えてもらえばよい。それでは、これで解散・・・あぁ・・・正英と良之介よ・・・今からの活動は、当然だが隠密行動である。お前たちの生死に本多家当局は一切関知しないから、そのつもりで・・・死して屍(しかばね)拾う者なし・・・死して屍(しかばね)拾う者なし・・・死して屍(しかばね)拾う者なし

といった。

正英は、「死して屍(しかばね)拾う者なし」は、「大江戸捜査網」エンディングのパクリだと言い掛けたが、梶金平様では反応悪そうと思って、言わないことにした。

以下95に続く

2007年3月 5日 (月)

琵琶湖伝第二部93「法戦 カムイ外伝」

琵琶湖伝第二部93法戦 カムイ外伝」

孫六は怖がってみせたが、正英はやはり合点がいかぬ様子である。

「木俣様に限ってそのようなことはありますまい」

忠勝の考えを正英は、はっきり否定する。

「正英、わしの考えは確かにおかしいかもしれん。だがなぁ、この世の中は、陰と陽、陽と陰でできているのだ。今日もまた太陽は昇り、川は流れる。小鳥のさえずりは、実に心地よいものだ。しかし、光あるところに影があるのだ。逆もまた真なり。影あるところに光あり。明は暗となり、暗は明となる。これは、何人も犯すことの出来ない掟なのだ。善人は悪人となり、悪人は善人となる。朝(あした)の善人が、夕べに悪人となりても、何の不思議やあらん」

忠勝は正英を諭すようにいう。

正英は眼を大きく見開いて叫んだ。

「たーだかつさまー、今述べた、「今日もまた太陽は昇り、川は流れる」は忍風カムイ外伝のオープニングの言葉にあらずや。そうならば、これパクリなり。乞尊意(こうそんい)」

孫六がわめいた。

「正英、殿に法戦(ほっせん 禅宗などで師家と修行者が問答することで、乞尊意(こうそんい)は質問者の第一声の中でよく使われる)を挑むとは無礼であろう」

「孫六、気遣い無用。受けて立とう。正英よ、パクリは単なる盗用なり」

正英 問「中々(なかなか)、その言は盗用ではなきや」

忠勝 答「いいや、盗用というは、一幅の画餅(がびょう)にして何の益も無し」